122回 庫房水浸(財政が金余り)

122回 庫房水浸(財政が金余り)

香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。
(立教大学法学部政治学科教授 倉田徹)

財政黒字が過去最高
現金給付には非常に慎重

財政予算案の発表後に記者会見した陳茂波・財政長官

植民地期の伝統で福祉投資は最低限

史上最高の黒字

 今回のキーワードは「庫房水浸」です。直訳すれば「倉庫が水浸し」という意味ですが、もちろんこれは比喩です。広東語で「水」が「お金」を意味すると言うことは、多くの方がご存じかと思います。「水浸し」は、従って「金余り」ということになります。政治用語としては、「庫房水浸」は、「財政が金余り」という意味で使われます。

 2月28日、陳茂波・財政長官は、来年度の財政予算案を発表しました。好景気や土地売却の収入の増加により、昨年度の政府財政は1380億香港ドルという史上最高の黒字を記録しました。これを受け、香港紙には「庫房水浸」の字が躍ったのです。

 陳長官は、黒字額の4割に相当する額を、減税や生活保護の増額などの措置によって市民に還元することを予算案で提案しました。他方、多くの市民や政党が期待した現金給付の措置はとられず、市民の間では失望が広がりました。香港大学の調査では、財政予算案に満足とした市民が26%に対し、不満とした者は41%と、「庫房水浸」の状況が、かえって政府への批判を呼ぶ事態となったのです。

基本法の拘束

 政府財政は、返還直後の数年間、アジア通貨危機の影響で赤字が続きました。しかし、2004年以降は黒字が続いており、積み上がった財政剰余金はついに1兆香港ドルを超えました。これほどの黒字を抱えながら、政府は現金給付などの措置に対しては非常に慎重です。なぜなのでしょうか。

 一つの要因は、香港の植民地期以来の伝統です。もともと香港は低税率と簡素な税制、小さな政府を旨としており、市場への政府の介入をできるだけ回避するという方針で、社会福祉や産業への投資などは最低限に抑えてきました。これは植民地的な事情によってとられてきた政策でもありました。言うまでもなく、宗主国にとって、住民の福祉は優先政策ではありません。また、産業においては、華人企業家が主力となった製造業の振興よりも、イギリス系が牛耳る金融に有利な自由主義の経済政策が、香港では選択されてきたのです。

 もちろん、こういった植民地的な条件は、返還によって20年前になくなったのですが、その後も香港の財政に根本的な変化は見られません。それは、「一国二制度」のアレンジが、香港の「現状維持」を意図したものであることと、大きくかかわっています。香港基本法の第107条には、「香港特別行政区の財政予算は、収入の範囲内で支出を行うことを原則とし、財政均衡に努め、赤字を回避し、香港のGDP成長率と相応するものとする」との内容があります。つまり、赤字予算を組むことは「違法」になってしまうのです。

 基本法起草の際には、香港社会には返還後に対する強い憂慮が漂っていました。このため、香港市民はこれまでのやり方を可能な限り守ることを求め、それが基本法に反映されています。これを社会学者の呂大楽・香港教育大学教授は「香港の冷凍保存」と形容しています。しかし、基本法起草当時、すなわち1980年代後半の香港と、今の香港では事情が大きく異なります。「過去形」となった「香港モデル」の維持を規定した基本法の一部の内容は、むしろ香港にとって足かせとも見られるようになっています。

 現在とは全く逆のアジア通貨危機後の時期にも、基本法の硬直性は早くも問題となっていました。当時の大不況の中で、民間企業では大幅なリストラと、給与のカットが行われていました。しかし、基本法の第100条には、公務員の給与・手当・福祉と労働条件は従来の水準を下回らないとの規定があるため、公務員は高給を維持することとなりました。香港の競争力の源泉は有能で効率の良い公務員であるとの判断から、彼らが政治リスクを気にせずに返還後も香港政府に残れることを意図した条文でしたが、返還直後に相次いだ失政も相まって、市民の間では公務員の特権に対する強い反感が募ったのでした。

長期の視点、短期の視点

 もっとも、この「庫房水浸」の状況がいつまで続くかについて、懸念する声も存在します。香港も高齢化と、経済成長率の鈍化が、今後財政への大きな負担となる可能性があるからです。2013年に政府が設置した「長期的財政計画ワーキンググループ」では、専門家が高齢化の財政への影響を検討しましたが、メンバーである経済学者の雷鼎鳴氏は、現在の収入と支出のGDP比でいけば、遠からず財政は構造赤字となり、2030年に財政剰余金が底をつき、2042年にはギリシャ以上の債務の問題になると警告しました。

 しかし、こうした長期の視点が重要である一方、目の前の香港の問題も解決せねばなりません。異常な暴騰が続く不動産価格による住宅難、そしてアジア最悪の貧富の格差は、公共住宅の建設や福祉の拡大といった財政の出動によって政治的に解決することが求められます。長期的な財政の問題を強調する政府の立場に対して、あまりにも悲観的な経済予測に基づいて、保守的な財政運営をしすぎているとの批判も絶えません。

 そして、今回の財政予算案は、立法会の補欠選挙という超短期的な問題にも左右されました。選挙を前にしたとき、政治家は市民へのバラマキを意識します。今回も各党は予算案が市民への還元において不十分であると強く批判し、民主派のみならず、親政府派の各政党からも、様々な形での現金給付などの措置を求める声があがっています。かつては2011年にも、財政予算案における市民への還元が不足であるとして、政党から一斉に不満の声があがり、後に政府は全市民に対して6000香港ドルの現金給付を行うことになりました。しかし、財界は健全財政を求め、バラマキを批判します。

 過去数年、香港政治は民主化問題や中港関係をめぐって大論争が続きましたが、林鄭月娥・行政長官の就任後、全体的な政治情勢は落ち着いてきています。そうなると、財政や経済といった問題が、政治の焦点として浮上します。親政府派内部にも意見の対立のある経済問題も、香港政治の複雑かつ重要な課題の一つです。

(このシリーズは月1回掲載します)

筆者・倉田徹
立教大学法学部政治学科教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、035月~063月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞

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