116回 新界王(新界王)

統治制度の異なる新界
先住民の伝統的な権益を保護

香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。(立教大学法学部政治学科教授 倉田徹)

戸建て住宅建設の特権に危機

戸建て住宅が建ち並ぶ新界

盛大な葬儀

今回のキーワードは「新界王」です。このあだ名で称されたのは、本連載で以前にも登場した「發叔」=「發おじさん」、すなわち劉皇発氏のことです。新界郷議局主席を36年、屯門区議会主席を33年、立法評議会・臨時立法会・立法会議員を31年、全国政協委員を20年、行政会議メンバーを3年務めた政界の大ベテランで、7月23日に80歳で死去しました。

1936年、新界の屯門・龍鼓灘村で貧しい家庭に生まれた劉氏は、中学卒業後は農業の後、元朗で雑貨店を経営、後に24歳で龍鼓灘村長となりました。以後は政界でも活躍すると同時に、新界で600カ所以上の土地を所有する大富豪となり、「新界王」と称されるに至ったのです。

8月18日に行われた劉氏の葬儀は極めて盛大なものでした。董建華・元行政長官、林鄭月娥・行政長官、張暁明・中連弁主任、梁君彦・立法会主席らが棺を守り、張徳江・全人代委員長、李源潮・国家副主席からも花輪が届きました。筆者はこの日香港にいて、尖沙咀で昼食の約束があったのですが、相手は香港島から九龍に向かう際、葬儀に要人が参列するための紅磡付近での交通規制に遭い、大遅刻してきました。

現代の「マハラジャ」

劉氏がこれほどの権勢を誇ったのはなぜでしょうか。『信報』主筆の沈旭暉氏は、8月14日の同紙のコラムで、単に彼の政府での肩書きを並べただけでは、外国人には「新界王」とは何かは分かるまいと述べた上で、「新界王」は、いわばイギリス植民地統治下におけるインドのマハラジャのようなものであると述べています。

英領インドには、イギリスに直接統治された地域のほかに、数百の藩王国があり、その支配者がマハラジャなどと称されました。イギリスは、藩王国についてはマハラジャを通じた間接支配を実施したのです。

香港の場合、新界が租借地としてイギリス支配下に入ったのは1898年でした。植民地化当時に人口も少なく、比較的容易に支配できた香港島・九龍と異なり、新界には伝統的な農村が点在し、広東省当局との関係も強く、イギリスの統治は当初激しい抵抗を受けました。イギリスは「新界六日戦争」と呼ばれる抵抗運動の武力鎮圧の後、「理民府」を設置し、農村の伝統的指導者の地位を保障して、政府と住民をつなぐ仲介役として使うようにしたのです。1926年には「郷議局」が設置され、村の指導者が招かれました。イギリスが様々な行政を行う際には、こうした村の指導者を通じて実施することになったのです。つまり、香港島・九龍と新界では、様々な統治の制度が異なっていたのでした。

こうした香港政庁と新界の住民の橋渡し役として大活躍したのが劉氏でした。1970年代、激増する人口を収容するため、当時政庁は公共住宅の大量建設計画を進めていました。その用地は香港島と九龍だけでは不足で、沙田や/ژ湾などにニュータウンを建設することを政庁は考えました。このうち、屯門のニュータウン建設において、劉氏は立ち退きに抵抗する住民を説得し、建設実現に尽力しました。屯門にある「皇珠路」という道路は、劉氏と、妻の呉妹珠氏から一字ずつ取って名付けられたものです。

特権は時代に合うか?

劉氏の「功績」として語られるものに、「香港基本法に新界住民の特権の条項を書き入れた」というものがあります。劉氏は基本法起草委員を務めており、基本法第40条には、新界住民の伝統的な権益の保護がうたわれています。当時基本法起草委員会の幹部を務め、後に国務院香港マカオ弁公室の副主任を務めた陳佐،|氏は、「基本法40条はすなわち劉氏であり、劉氏はすなわち基本法40条である」と述べています。

この「新界住民の伝統的な権益」の中で最も重要なものが、「新界原居民の男子が、一生に一度一戸建て住宅を新築する権利」です。男性(男丁)に限定される権利であるため、この権利は「丁権」と呼ばれ、これに基づいて建てられた家は「丁屋」と呼ばれます。床面積2100平方フィート以内、3階建てまでという制限があるため、「丁屋」の形状はいずれも似たようなものとなります。よほどの大富豪を除くほとんどの香港市民がマンション住まいである上に、不動産が暴騰している昨今の事情を考えれば、この権利はとてつもない特権であると言えるでしょう。

この「丁屋」政策は、イギリス香港政庁と新界原居民の妥協の産物でした。ニュータウン建設で転居を迫られる新界の村の住民を説得するため、1972年に「丁屋」政策が始まったのです。政策開始当時は、香港全体が現在よりもはるかに人口も少なく、新界の農村は交通が不便であるかわりに、市街地と異なり土地には余裕があり、「丁屋」建設用地は容易に確保できました。しかし、林鄭長官が土地問題の専門家グループを設置し、血眼になって住宅建設候補地を探している現在、「丁屋」は貴重な香港の利用可能な土地を減らしてしまいます。「新界王」劉氏の死後、再び新界の「丁屋」の違法増築や、公有地での不法な建築などに関する議論が活発になり始めました。

この特権に対する干渉には、新界住民は激しく抵抗します。林鄭長官が発展局局長を務めていた2011年、「丁屋」を違法に増築して4階建て以上にしているものについて、違法部分を取り壊すとの強硬な態度を取ったため、新界住民の激しい反発を呼びました。しかし、新界以外の住民の多くは林鄭氏に喝采し、支持率は大いに上昇、これが現在につながる出世のきっかけにもなりました。「丁屋」政策の恩恵を受けることのない大部分の香港市民は、新界住民の特権に否定的です。また、男子に限られるこの権利が女性差別として批判されていることも言うまでもありません。「丁屋」政策は、いずれ廃止すべきとの意見の者が多数です。「新界王」劉氏の生前の地位の大部分は、息子の劉業強氏に引き継がれましたが、こうした特権がいつまで引き継がれるかは、劉業強氏が「新界王」のカリスマ性を継承できるかどうかにもかかってくるでしょう。

(このシリーズは月1回掲載します)

筆者・倉田徹
立教大学法学部政治学科教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、035月〜063月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞

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