返還から20周年 1997〜2017年を振り返る

返還から20周年
1997〜2017年を振り返る

香港は7月1日に中国への返還から20周年を迎えた。この間には2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)流行による打撃、08年の米国発の金融危機、14年の「セントラル占拠行動」と数々の危機に見舞われた。「香港独立」を唱える過激な勢力の台頭で1国2制度は試練にさらされているなど、波乱の20年を簡単に振り返ってみる。(編集部)

1997年

20世紀最後の一大セレモニーといわれた返還式典

7月1日、香港は155年間にわたる英国の植民地統治に終止符が打たれた。世紀の大実験といわれる「1国2制度」を実施する香港特別行政区が成立。だが返還バブルに沸いた好景気は間もなくアジア金融危機の影響を受け、10月28日には香港株式市場が過去最大の暴落。バブルは崩壊した。

1998年

返還をまたぐ大型インフラプロジェクトである香港国際空港(チェクラプコク空港)が返還1周年を記念して7月6日に開港。だが、貨物ターミナルのシステム故障、旅客の託送荷物が行方不明、搭乗ゲートが飛行機の乗降口に接続できないなど大混乱。損害は200億ドルともみられ、原因を究明する調査委員会が設置された。

1999年

香港終審法院(最高裁判所)は1月、親が香港永住権を取得する前に生まれた子女にも香港の居住権が生じるとの判決を下した。この判決に基づくと香港市民が中国本土に持つ子女すべてに居住権が生じ、特区政府の推計では167万人の香港定住が可能となる。社会の動揺から特区政府は全国人民代表大会常務委員会に基本法解釈を要求し、判決を覆した。

2000年

長江実業傘下のトム・ドット・コム上場など香港もIT(情報技術)ブームに。だが実体の伴わないネットビジネスがはびこりバブルは崩壊、多くのIT関連企業で人員削減が行われた。またIT関連企業PCCWによる通信最大手の旧香港テレコム買収も注目を浴びた。シンガポール・テレコムによる買収は阻止できたものの李嘉誠氏一族による通信市場独占に懸念も持たれた。

2001年

中国が12月に世界貿易機関(WTO)に加盟。これまで中国市場進出のゲートウエーだった香港は役割低下による打撃を懸念。一方で特区政府などは外国企業に先駆けて香港企業が中国本土で優位な地位を占めるべきだと進出を促し、西部開発への参入も提唱された。競争力強化に向けた企業再編も進み、中国銀行グループの姉妹行合併が金融界最大の動きとして注目された。

2002年

董建華・行政長官が対立候補が出ないまま続投を決め、2期目は高官問責制(閣僚制)を導入すると表明。民間から唐英年氏、李国章氏らを高官に任命、行政会議メンバーには自由党の自由党の田北俊・主席、民主建港協進連盟(民建連)の曽ـ‮١‬成・主席らを迎え入れた。5年間見送ってきた基本法23条に基づく立法に着手するため、政治基盤を強化した。

2003年

2003年以来、恒例となった民主派の7.1デモ

重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行によって2〜6月には1755人が感染、299人が死亡した。世界保険機関(WHO)は4月2日、香港への渡航延期勧告を発出。観光客の激減で消費市場は冷え込み、失業率は5〜7月に過去最高の8.7%に達した。7月1日には初の7.1デモ開催、主催者発表で50万人参加した。

2004年

03年に打ち出された中国本土住民の個人旅行自由化や経済貿易緊密化協定(CEPA)など中央政府による支援措置で重症急性呼吸器症候群(SARS)による不況から徐々に脱却。香港の後背地拡大が期待できる汎珠江デルタ経済圏構想も実際に動き出し、6月には香港で初の首長級会議が開催され本土との経済一体化が進んだ。年初には人民元の預金業務などがスタートした。

2005年

董建華・行政長官は3月、健康上の理由により約2年の任期を残して辞任。後任長官の任期が董長官の残した2年か、通常の5年であるかで議論が巻き起こり、全国人民代表大会常務委員会による基本法解釈で2年と決まる。後任として曽蔭権(ドナルド・ツァン)政務長官が補欠選挙実施前に自動当選した。

2006年

財政赤字の解消、輸出増加、金融業急伸、中国本土観光客に後押しされた堅調な内需で好況感が高まった。こうした中、香港市民は中国銀行、中国工商銀行の新規株式公開(IPO)にわき、ハンセン指数は初めて19000ポイント台に乗った。

2007年

ハンセン指数は10月26日、史上初の30000ポイントの大台に乗った。国家外為管理局が8月、中国銀行天津支店を窓口として中国本土住民による香港株への直接投資を解禁する措置を発表したことが背景にある。しかし温家宝・首相が11月3日、過剰な資金が香港に流入するのを懸念した「慎重論」を述べ、過熱していた株式市場を収めた。一方、国務院は1月、香港での人民元建て債券の発行を認めると発表。これを受けて7月、国家開発銀行が総額50億元の人民元債を発行したのを皮切りに、中国輸出入銀行、中国銀行が続いた。この年は返還10周年で胡錦涛・国家主席が来港、深圳湾公路大橋とKCR落馬洲支線が開通した。

2008年

世界同時株安の10月27日、香港株式市場はハンセン指数が1997年以来の下げ幅となる12.7%下落を記録して11000ポイント台まで落ち込んだ。米リーマン・ブラザーズの破たんは香港市民にもショックを与えた。9月には東亜銀行に経営危機のうわさが流れ、預金を引き出そうと焦る人が殺到した。創業62年の家電販売チェーン「泰林電器」が自主清算するなど事態はひっ迫。金融機関より中小企業の救援が急務であると世論がわいた。11月、特区政府は百億ドルの補正予算を組み、中小企業を対象にした70%の融資保証プランを発表した。

2009年

3月の全国人民代表大会で温家宝・首相は、かつての政府活動報告にはない約300字もの字数を割き、香港・マカオについて言及。金融危機で受けた打撃から経済をいち早く回復させるために、「人民元による貿易決済の試行推進」「広東省・香港・マカオ3地の協力の拡大深化」「港珠澳大橋、香港・深‮&‬`空港連絡鉄道、広州—香港間高速鉄道などのインフラ建設の推進加速」「中国本土サービス業の開放拡大」「本土の香港・マカオ系企業、特に中小企業の発展、経営難の解決に向けた有効な支援措置」を同報告に盛り込んだ。5月には香港と中国本土の経済貿易緊密化協定(CEPA)第6補充協議を締結。7月中国本土5都市の試行企業と香港、マカオ、東南アジア諸国連合(ASEAN)の間での人民元による貿易決済がスタート。9月には香港で初めて中国国債が発行された。

2010年

2012年の行政長官・立法会議員選挙に関する政治体制改革案が可決した。中国への返還後、初の選挙制度改正となる。すべての民主派議員が反対して政府案が否決された05年と同様、今回も否決の可能性が高いとみられていたが、民主派の足並みが崩れた。「五区総辞(五選挙区すべて辞職)」に伴う補選を住民投票に見立てて民意を問うと主張して所属議員に辞表を提出させた公民党と社会民主連線に対し、民主派で最多議席を持つ民主党は同調しなかった上、5月には何俊仁(アルバート・ホー)主席ら代表3人が中央人民政府駐香港特区連絡弁公室(中連弁)の李剛・副主任と直接対話して歩み寄りを図った。特区政府は全登録有権者が1人2票を投じる改良案を発表して採決に臨み、6月25日の可決を果たした。

2011年

3月の全国人民代表大会で採択された第12次5カ年計画(2011〜15年)で香港・マカオに関して初めて独立した章が設けられた。香港が本格的に国家計画入りし、中国の発展戦略における位置付けが示された。計画では香港・マカオの競争力向上、新興産業の育成、中国本土との経済協力深化の3節に分けられ、香港が人民元オフショア業務センターや国際資産運用センターとなるのを支援するなど金融面での役割を強調。さらに世界金融危機の再燃が懸念される中、8月には李克強・副首相が5カ年計画に関するフォーラムで香港を訪問し、中央政府による新たな香港支援策を発表。計36項目の措置のうち金融関係が最も多い12項目を占め、人民元がかかわる内容は7項目に及ぶ。

2012年

3月25日に行われた第4期行政長官選挙で前行政会議召集人の梁振英氏が当選した。7月1日から行政長官に就任する。2017年の普通選挙実現に向けたステップとして返還後では初めて親政府派の候補者が複数立候補。だが、当初本命とみられていた唐英年・前政務長官のスキャンダルによる支持率低下で、民主派や唐氏を支持していた選挙委員が白票を投じて選挙が流れる懸念が高まり、中央政府が梁氏の当選を工作。逆転勝利となった梁氏だが、その得票率から財界の支持が薄いことは否めず、当初から施政を危ぶむ声が多かった。

2013年

梁振英政権が発足から1周年を迎えたものの、行政会議メンバーや高官のスキャンダルは相次ぎ、政策もさまざまな障害に阻まれるなど不安定な施政が続いた。普通選挙問題では「セントラル占拠行動」や米英の干渉など不穏な動きが持ち上がる中で公開諮問が始まった。また中国証券監督管理委員会は3月、中国本土の証券市場に海外からの人民元建て投資を認める人民元適格海外機関投資家(RQFII)の規制緩和を発表。人民元国際化の進展で香港の優位性低下も懸念され始めた。スイスのビジネススクールIMD(国際経営開発研究所)が5月に発表した「国際競争力報告書」では、香港の競争力は前年の1位から3位に後退した。

2014年

79日間にわたり公道を占拠した「セントラル占拠行動」

行政長官の普通選挙問題をめぐりかねて計画されていた「セントラル占拠行動」が9月28日〜12月15日に発生。それに先駆けた7月には『りんご日報』などを発行する壱伝媒集団(ネクストメディア)の黎智英(ジミー・ライ)会長が民主派の政党や関係者に多額の献金を行っていたことが暴露され、5月末にはネオコンとして知られる米国のポール・ウォルフォウィッツ元国防副長官と黎氏が香港で密会していたことが暴露されており、占拠行動の背景の一端をのぞかせた。全国人民代表大会常務委員会の決定について李飛・副秘書長(基本法委員会主任)が9月1日に来港し、占拠行動に触れて「違法活動による脅迫に屈すれば違法活動が増えることを考慮した」と説明した。占拠行動の最中にスタートした上海・香港両証取の相互乗り入れや、広州と香港を結ぶ高速鉄道の工事遅延問題も注目された。

「セントラル占拠行動」に反対する大規模デモも行われた

2015年

行政長官の普通選挙を実現するための政治体制改革案が立法会で審議されたことや区議会議員選挙が行われるなど、前年の「セントラル占拠行動」の影響が続く政治情勢が注目を浴びた。立法会は6月18日、特区政府が提出した行政長官選出方法改正に関する議案を否決。主流民意は可決を望んだものの、民主派議員らは急進・過激派勢力に縛られる形で否決権を行使した。地方議会に当たる区議会議員選挙が11月22日に投開票された。「セントラル占拠行動」の影響を受けて投票率は前回(11年)より約6ポイント上昇の47%、約147万人が投票し、ともに過去最高。ただし占拠行動を前面に出した過激派3党は1人も当選せず、セントラル占拠行動発起人らが支援した候補などはいずれも落選した。一方、4月には並行輸入活動で問題となっている深圳市の戸籍住民に認められた数次ビザの制限が発表されたほか、観光・小売業の低迷が顕著となったことなどに関心が高まった。

2016年

年初の旺角暴動に始まり、立法会議員の補欠選挙、銅鑼湾書店事件、「香港独立」志向の拡大、立法会議員選挙とその宣誓問題をめぐる香港基本法の解釈、17年の行政長官選挙に向けた選挙委員会選挙や候補者の登場、梁振英・行政長官の出馬断念など、政治的に大いに揺れた。9月の立法会議員選挙では「セントラル占拠行動」によって台頭した「香港独立」や「民主自決」を唱える本土派(排他主義勢力)などの候補者からは7人が当選。だが本土派のうち2人は就任宣誓での問題行為から高等法院(高等裁判所)に議員資格喪失の判決が下された。2月8日に旺角で発生した暴動では16日までに68人が逮捕され、うち41人が暴動罪、違法集会罪で起訴された。公立病院に運ばれた負傷者は警官を中心に130人余りに上った。

2017年

第5期行政長官選挙の投開票が3月26日に行われ、林鄭月娥・前政務長官が当選した。林鄭氏を推薦した財界の選挙委員が投票時にどれだけ曽俊華・前財政長官に流れるかが焦点だったが、林鄭氏の得票数が予想以上の777票となり、親政府派の2大陣営を団結させた。香港返還から20周年を迎えた7月1日、初の女性行政長官として就任した。また3月の全国人民代表大会で発表された李克強・首相の政府活動報告に盛り込まれた「粤港澳大湾区」がホットなキーワードとなった。4月には特区政府による粤港澳大湾区視察団が珠江西岸6市を訪問するなど、「一帯一路」戦略への呼応を焦点に香港経済の活路を探っている。

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