あなたが四川省へ行くべき36の理由

第13 回  被災地へ向かう旅

綿竹市漢旺鎮

まずは成都駅から鉄道で徳陽へ向かった。距離にして61キロ、乗車時間は50分ぐらいだった

四川省は中国の内陸部にあり、山に囲まれた豊かな自然の中で、独自の文化を育んできた古い歴史を持つ地域です。近年、四川省は経済発展に伴い交通網が整備され、改めて「観光地」として注目を集めています。変貌する「蜀の国」を旅しながら、中国の今を探ってみました。(編集部)

《34》 成都、再び
  私は10年前にも四川省を広く旅行したことがあったため、今回の取材を通じて、四川省が格段の発展を遂げたことを知った。かつての四川省は交通も不便で、発展の遅れた地方であり、日本からは「遥か遠い場所」だった。

漢旺行きのバスの終点から少し歩いたところ。この先が「老城地震遺跡区」

しかし、今なら日本から成都への格安航空券もあるし、成都なら中国旅に不慣れな初心者でも気楽に楽しめるだろう。道路網が整備されているから、その他の中小都市や田舎まで足を伸ばすのも便利である。

とりあえず成都まで来れば、三国志ゆかりの地も、パンダも見られる。おいしい四川料理も食べられる。少し足を伸ばせば三星堆の古代文明も見られる。自然も豊かで温泉もある。日本語の案内も充実しているし、Wi-Fiが繋がる場所も多いのでネットへの接続も楽だった。人々は優しく親切で、反日感情も全く感じることはなかった。今の四川省は、日本人が気軽に安心して行くことができる身近な観光地なのであった。

寛窄巷子にて

成都の寛窄巷子(かんさくこうし)は古い中国の町並みを再現した観光地だ

成都を振り出しに各地を巡り、四川省の深層を体験して成都に戻ってくると、放心状態になってしまった。溜まった疲れが出たんだろうか…いや、そうではない。私は1週間の濃密な旅を通じて、この地に凝縮された数多の民族と文化が織りなす何千年の歴史の中を縦横無尽に駆け巡ったのだ…。これは、今までの人生の中で最も濃密な1週間でもあった。

成都に戻ってから寛窄巷子の取材に向かった。ここは確かに観光地としては悪くないが、1週間の旅の後には、物足りないだけでなく、「何かが違う」と感じた。ここは中国人が中国の中に作った中華街みたいだった。いや、だったら日本人が四川省に来て見るべきものとはなんだろうか。日本人が中国の他の場所ではなく、四川省に来るべき理由はなんだろうか…。私は寛窄巷子でずっと立ち尽くし、通り過ぎる観光客を呆然と眺めながら、そんなことを考えていた。

取材旅行は終わったけど、私の旅はまだ終わっていない。

四川旅游局が組んでくれた取材旅行は10月1日で終了だが、香港へ戻る飛行機は10月5日のチケットを用意していた。急いで戻る用もなかったので、ゆっくり休んでから帰ろうと思っていたのだ。だから、この4日間は何の予定も入ってない。この4日間の内に、私はこの旅を完成させたい。私にとって、日本人にとって四川とは何か。なぜ四川でなくてはいけないのか。私は、四川に特別な何かを感じている。でも、それは一体何なのだろうか。

日本人と四川省
  成都でホテルに戻ってからベッドで横になって、ずっと天井を見ながら考えていた。

この1週間の旅を思い出すと、浮かんでくるのは行く先々で出会った人たちの顔・顔・顔…人懐っこい笑顔が印象的だった広漢市の回鍋肉屋の皆さん(第3回)、「この町で誰も日本のことを嫌ったりしてないのよ。もう昔のことじゃないの…日本は中国の友達なんだから。だから気にしないでくださいね」と私を気遣ってくれた閬中古城の土産物屋の人々(第9回)、被災からようやく再起して、新しいレストランを開業させたばかりの金面子酒家の家族たち(第11回)…ああ、そうだ! と気がついた。

中国経済の発展に伴い、四川省も発展し便利になった。だから観光もしやすくなったけど、四川省はこの6年間、大地震からの復興で大変だったのだ(注・取材は2014年)。そして旅の終わりごろになって、私は四川省の人々が日本人に対して、「国籍」の壁を越えて、同じ「被災者」としての哀れみと親しみを持ってくれているのではないか…と思うようになった。

私がこの1週間の取材で見たのは「震災から復興した四川省の姿」でもあった。四川省の人々と、中国の他の地域から救援に駆け付けた人々が、力を合わせて見事に復興させた四川省を見たのだ。

私が1週間の旅を終えて、四川省に心をわしづかみにされている理由は、たぶんそこにあるはず。私の目に、四川省と四川の人々が輝いて見えるのは、地震に耐えて復興を成し遂げたからじゃないか。

でも、私はこの地を襲った大地震の真相を知らない。その真相を知ることで、私は1週間の取材で見てきた復興の真相を、今の四川省の根底にあるものを理解できるはず。そして、それを『香港ポスト』の読者の皆さんにお伝えすることで、この旅行記は完成するのではないか。

《35》 被災地へ向かう
  「すみません、地震の被災地へ行きたいのですが…」

早朝から私は街角の旅行社に飛び込んで、被災地へ向かうツアーがないか尋ねてみた。

四川省では2008年5月12日に発生した大地震で、被害が甚大であったため、復興させないまま遺棄された町がいくつかあり、それらは地震を後世に伝える「遺跡」となり、そこを訪問するツアーがある…という話を聞いたことがあるのだ。

旅行社の店員は、そっけなく首を横に振る。目も合わせずただ、「没有」というだけだった。行き方だけでも教えてもらおうと思ったが、相手にしてくれない。ネットでいくつかの情報はあったが、詳しい行き方や、外国人も泊まれるホテルの有無がわからない。

いくつかの旅行社を巡った後、ある旅行社で 「以前はツアーがあったんだけど、今はないですねぇ…」との返答を得た。30歳ぐらいの女性である。

「それにしても、なぜあなたは地震の遺跡を見たいのですか?」
「私は日本人です。私の国でも大きな地震がありました。だから、四川大地震の遺跡を見ておきたいのです」

彼女はしばらく黙り込んで何かを考え込み、成都から鉄道とバスを乗り継いで漢旺(ハンワン)まで行く方法を紙に書いて渡してくれた。漢旺は「地震遺跡」がある町の1つである。

彼女によれば、成都から鉄道で徳陽へ向い、そこからバスに乗り換えて綿竹へ行けば、漢旺行きのバスがあるという。

旅行社の店員だから、四川内の移動には詳しいのだろうけど、漢旺は観光地でもない小さな町である。なぜとっさに彼女は行き方を説明できたのだろうか…徳陽行きの列車の中で、車窓に広がる田園風景を見ながら、彼女はもしかしたら漢旺の出身だったのかもしれない…と思った。

漢旺新鎮
徳陽でバスに乗り綿竹へ。綿竹で漢旺行きのバスに乗る。オンボロの小さなバスで空調はない。買い物帰りのオバサンや子供がたくさん乗って、バスの中はエンジンの騒音に油のニオイと体臭で充満しているが、窓を開けると気持ち良い風が入ってくる。バスが停まる度に、乗客は少しずつ減って、最後は私1人だけになった。窓の外には夕日が見えた。

高い山が見え始めてしばらくすると、いくつか建物があり、ただ道路が交差するだけの殺風景な十字路でバスは停まった。運転手が「降りろ」と言う。バス停はないけれど、ここが漢旺らしい。

何もないところで突然降ろされて、この町の地図も持ってないので、どこへ行けばいいのかわからない。長い長い道路の先に、大きな道路案内板が見えたので、しばらく歩いて見てみると、この道路の先には「老城地震遺跡区」があるのがわかった。ここは漢旺で間違いない。「老城」とはこの場合、「旧市街」と訳すべきか。漢旺は現在、地震遺跡になっている方が本来の町の中心部であり、そこが甚大な被害を受けたため遺棄され、私が今立っているのは本来の漢旺の町外れにあたる。

漢旺の遺棄された地域と、今も人が住む地域の「境界」はどこからなのか…旧市街へ向かって歩いてみた。時折、車が通り過ぎる。静かだがたまに人影が見える。長い道が続く先に建物が見えるけれど、あれが廃棄された町なのか。遠目に見ている限りは普通の小さな町である。たどり着くころには日が暮れそうだ。

遺棄された地域はそれほど大きくないのかも知れないし、境界がよくわからないので、とりあえず最初の十字路近くまで戻り、ホテルを見つけて部屋を借りることにした。

「境界」地域周辺の歩道

すでに日が暮れかかっていたので、旧市街へ行くのは明日にして、ホテルの周辺を散策することにした。

手短に言うと…ホテルの周辺も遺棄された場所じゃないのかと思われた。ゴーストタウンで人がまばらに住んでいる…という印象だ。

歩道には雑草が生い茂っていた。歩行者が少ないからだろう。沿道の店舗の大半はシャッターを閉めている。使われていないボロボロのビル、建設途中なのか地震で壊れたのかわからない廃墟があちこちにある。

建設中と思われる建物

新たに建設中の建物があった。足場も組んでいるから間違いないだろう。漢旺には空き家が多いけど、古い建物は耐震構造じゃないから新築が必要なのか。しかし…私は建築の専門家ではないから正確なことは言えないが…日本で見るのとは何かが違う…コンクリートの柱が細いような気がする。これでちゃんと耐震構造になっているのだろうか。

しばらく進むと、真新しい建物の雑貨店が見えたが、金色の文字で大きく「永世不忘党的恩情」(永遠に党の恩情を忘れず)と掲げている。「国家」や「政府」じゃなくて「党」だ。日本だと「がんばろう漢旺」みたいなキャッチコピーになるのだろうけど。

歩き回っている内に日が落ちて夜になった。大きな牌楼が見えたので近づいてみると「漢旺新鎮」と書かれている。後で町の人に聞いたが、漢旺の中心街が地震で破壊されたので、町外れの農地を「新鎮」として開発し、工場などを建てたそうだ。

牌楼をくぐった先は広場になっており、さまざまな店があった。スーパーマーケット、携帯電話会社、保険会社、美容室、薬屋、子供服店、そしてカラオケ屋。ここにはちゃんと人々の生活があるようだった。

広場で踊る人々

中国のどこに行っても、広場で踊る人たち…主にオバサン…がいる。あれは「広場舞」と言うけれど、漢旺新鎮でも踊るオバサンたちがいた。それを見て少しホッとしたけど、他の中国の町で見るのとは違って参加している人が少なく、踊る姿も何やら物悲しげな様子だった。

死者と生者の世界の境目
夜になると、新鎮は真っ暗になった。昼間は人々の生活があり、ここに働く人もいるのだろうけど、夜は静まり返って人がほとんど見えなくなった。遠くに白い柱があり、何やら大きな赤い文字が見える…近づくと、「感謝共産党」と書かれていた。ここは郵便局だ。

漢旺の郵便局

中国の他の地域の郵便局の外壁に、「感謝共産党」と大書しているのは見たことがないから、たぶんこれは地震後の復興についてのことだろう。

漢旺ではくし焼き屋が多く見られた。店先に並べられた食材の鮮度を見比べて店を選び、席に座ってとりあえずビールを飲んだ。店主は私を一瞥しただけで、後は目も合わせず、店員に話しかけても適当な言葉しか返ってこなかった。

漢旺ではくし焼き屋が人気だった

漢旺は、「地震の町」になって以来、好奇心に富んだ「ヨソモノ」が多数訪れたに違いない。首から一眼レフのカメラを下げた私は見るからにヨソモノで、あまり歓迎されてない様子だった。早々と食事を済ませ、ホテルに引き上げることにした。

【漢旺新鎮】震災後、被害が激しかった漢旺の旧市街は遺棄され、「新鎮」が作られた

 

鉄道とバスを乗り継ぎ、漢旺に着いてからもずっと町中を歩き回ったので、酒が入ると疲れが出て来た。酔っ払ってはいないが、くし焼き屋を出てからフラフラと歩き続けて、気がつくとホテルよりも先に進み、旧市街へと近づいていた。旧市街は明日訪問するけど、一体どこからが「境界」なのだろうか…。

「永遠に党の恩情を忘れず」

その時に、何かがおかしいことに気づいた。デジカメで日没前に撮影したこの道路の写真を引っ張り出して、いま目の前の道路の様子と見比べてみる…。この旧市街へと続く道は、まだまだずっと先があるはずなのに、その沿道には建物があったのに、いま見ると100メートルぐらい先から街灯が全て消えている。真っ暗な、本当に真っ暗な、完全な闇が目の前にあるのだ。ここが「境界」であり、その先が遺棄された旧市街なのだ。日没前に見えた町は、いま完全な暗黒の中に沈んでいる。

町外れの車道で旧市街の方を見る。「完全な闇」がすぐそばに近づいていた

死者と生者の世界の境目で立ち尽くし、動けなくなってしまった。私がいま見ている完全な闇の向こうには、2008年5月12日のまま時間が停まってしまった町がある。大地震が四川省に刻みつけた巨大な傷跡が、この闇の奥にあるのだ。(続く)

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