あなたが四川省へ行くべき36の理由 【第14 回】

あなたが四川省へ行くべき36の理由
第14 回  綿竹市…漢旺地震遺跡  
《36》 四川大地震の爪痕

 四川省は中国の内陸部にあり、山に囲まれた豊かな自然の中で、独自の文化を育んできた古い歴史を持つ地域です。近年、四川省は経済発展に伴い交通網が整備され、改めて「観光地」として注目を集めています。変貌する「蜀の国」を旅しながら、中国の今を探ってみました。(編集部)

この1つだけじゃなく、町全体の建物がこのように、またはこれ以上に破壊し尽くされているのだ。漢旺の地震遺跡は、後世に大地震の被害を伝える上で非常に貴重なものとなっている

暗黒と暴風雨

「ゴゴゴゴゴ…ドォオオーン!」という轟音で目が覚めた。私はホテルの部屋で眠っていたのだが、ホテル全体が轟音の中で震えているのだ。窓を開けると激しい突風が吹き荒れ、横殴りの大粒の雨が洪水のように室内へ降り注ぐ。必死で雨風に逆らい窓を閉めたが、悪霊の襲来のように雨風が激しく窓をたたき続ける。ベッドで布団を頭から被り、ガラス窓が砕け散るのに備えた。大げさに思われるかもしれないが、それほどに激しい暴風雨だった。

地震遺跡へ向かう車中にて

綿竹市漢旺鎮へ到着した日の夜に暴風雨に見舞われ、翌日も大粒の雨が滝のように降り続け、ホテルから全く出られなかった。食事に行くこともままならず、ただ一日中カビ臭い部屋の中で窓を締め切って、暴風雨の轟音を聞きながら、本を読んで過ごすしかなかった。

2008年5月12日に発生した四川大地震は、この町に甚大な被害を与えた。旧市街地は復興されることなく放棄され、巨大な廃墟は「地震遺跡」となった。私は四川の観光地を紹介する取材旅行の終わりに、被災地の現状を知ることなく、この旅行記は完結しない…と考え、漢旺へやって来たのだが、そもそもここは天候が険しい場所なのか、到着初日から厳しい自然の脅威を思い知らされることとなった。

旧漢旺駅跡

その翌日も雨は降り続けたが、小降りになった時に思い切って外へ出た。ホテルから地震遺跡まではちょっと距離がある。ホテルの前にいた小さな車に乗り込んで、地震遺跡まで連れて行ってもらうことにした。

旧漢旺駅跡

私はいつも運転手に現地のことをアレコレ聞くのだけど、ここではじっと黙っていた。到着した日に漢旺の町を歩いてわかったのは、外国人を…というより、「ヨソモノ」を全く歓迎してない…ということだ。

地震以来、多くのヨソモノがここを訪れたのだろう。ある者は善意により、ある者は同情して、ある者は好奇心のために、ある者は物見遊山のつもりで、ここにやってきた。地元の人々はさまざまな感情を抱いたであろう。ヨソモノが地震を起こしたわけじゃない。でも、ヨソモノに対して心を開くのは難しいようだった。

それに、ここは外国人に開放されている町だろうか。中国ではたまに、外国人が入ってはいけない地域がある。面倒なことに、どこが対外未開放なのか、それ自体が非公開情報なのだ。ホテルで記帳する際にパスポートを見せても何も言われなかった。たぶん対外未開放ではないのか。しかしここでは、私が外国人であるのを知られない方が安全なように思った。漢旺は大都市でも観光地でもない。知り合いはおらず、同行者もいない。それに、私がここに来ていること自体、誰にも伝えていない。

いきなり地震遺跡の中心には行かず、まずは遺跡の周囲を散策することにした。小雨の降る中、他の中国人観光客の後ろについて進むと、遺跡の外れに鉄道駅があった。

旧漢旺駅の敷地から眺めた川向こうの廃墟群

駅の広大な敷地のそばに川が流れている。上流に鉱山があり、そのせいか水は白く濁って不気味である。白い川の向こうに廃墟が建ち並んでいる。大きな町だが人の気配はない。雨の音以外は何も聞こえない。耳を澄ますと…廃墟から人々の声、生活の音が聞こえてきそうな。遠目には廃墟に見えない。でも、近寄ってカメラの望遠ズームでファインダーをのぞくと、無残に崩壊し、全く人が住める状況ではなかった。

川向うで何百メートルと続く廃墟群に私は圧倒されて、時間が経つのを忘れた。白い川を挟んで死の世界をのぞき込むような…雨が強くなり、ふと振り向くと、さっきまでそばにいたほかの中国人観光客の姿は見えなくなっていた。見渡す限り、周囲何百メートルの廃墟の中で、私以外の人間はいない。巨大な墓場で、一人ぼっちになった気分だ。私はこの地震についてもっと深く知りたくなった。

綿竹市抗震救災・災後重建紀念館

綿竹市抗震救災・災後重建紀念館

四川大地震の経緯と救援活動、復興支援について展示する「綿竹市抗震救災・災後重建紀念館」の内部は撮影禁止である。展示内容で私が気になったのは、海外からの支援を説明する箇所で、日本からの支援が一切書かれていなかったということ。日本からは多額の義援金が送られ、救援隊も派遣したのだが…。

破壊の少ない通りもあって、そこだけを見ると廃墟には見えない。数年前まで、ここには確かに人の生活があったのだ

後日、私は被災地に近い地域の中国人と知り合い、この件を話したところ、非常に複雑な表情をもって私に憤慨した。知人いわく、四川大地震直後、中国のメディアは日本の救援に非常に感謝し、連日テレビでもそれを伝えていた。しかし、中国のネットで日本への感謝を批判する声が大きくなり、日本の貢献については触れられなくなった…というのだ。

私はこれについて、中国当局の対応を非難するつもりはなく、ただ見たままの事実を述べただけだが、当時被災地の周辺にいた知人としては、日本への感謝がああいう形で封じ込められたことに複雑な感情を抱き、そこを日本人に目ざとく突かれたのは(私は何も突いてないのだが)、非常に悔しかったようだ。

「地震遺跡を保護し、被災した同胞の慰めとしよう」…地震遺跡は、地震を後世に伝える教育の場でもあり、被災民の慰霊の場でもある

この連載の閬中古城の回でも説明したが、日本軍による「重慶爆撃」は四川省でも行われており(そもそも当時重慶は四川省であった)、5年間に218回行われた爆撃で、中国の発表によれば1万1889名が亡くなり、11万4100名が負傷したとされる。

そして、2006年から重慶爆撃で受けた被害について、日本政府を相手に謝罪と賠償を求める裁判が始まり、四川大地震の発生はその2年後。2009年までに4次の提訴が行われており、2015年に原告が敗訴している。

放棄された住宅と倒壊した建物の跡

中国人の中の怒れる人々からすれば、日本政府が行った大量虐殺(中国で重慶爆撃は南京大虐殺と同質のものとして認識されている)では、賠償はおろか責任も認めないし謝罪もしないのだから、地震で義援金と救援隊を出したからといって感謝すべき筋ではない…という考えなのだろう。

漢旺地震遺跡

廃墟の中心部は徒歩での入場が禁じられており、自転車を借りて中へ入るようになっている。ただ、私が中心部に向かった時は、土砂降りの雨が始まり、ほかに自転車を借りる人はほぼいなかった。

土砂降りの中、自転車を走らせる。ゲートを越えて廃墟の中心部に入り、無人の町を疾走する。漢旺の地震遺跡の総面積は1.72平方キロメートルだ。ちなみに皇居の面積は1.42平方キロメートルだから、漢旺地震遺跡は皇居より2割以上大きい。その全体が廃墟となっており、雨のせいで私はこの広大な廃墟を一人で散策できた。

ビルの壁面には漢旺の町と思われる絵(下)、漢旺周辺の山々(中)、そして天女が描かれていた(上)。山間にできた炭坑町である漢旺は、まるで仙郷の如く自然に恵まれた立地にあるため、このような絵が描かれたのであろう

漢旺は地下資源が豊富で、石炭、燐、鉄鋼、石灰、大理石、硫黄の採掘で栄えた。解放後の中国の発展に貢献した町であった。

2008年の四川大地震では、漢旺で1万2242戸の建物が倒壊、541戸が損壊したそうだ。1万以上が倒壊? どこにそんな数の建物があったのか。私は自転車で被災現場の中心地を走ったけれど、1万戸の倒壊を実感できなかったのだ。少し考えて、倒壊した建物は撤去されたのだろうと理解した。後でネットで調べてみると、地震直後の漢旺は、町全体が瓦礫の中に埋没したような、言語を絶する壮絶な状況だった。

四川大地震全体の犠牲者の数は、6万9227名と発表されている。漢旺のある綿竹市全体では1万1117名が亡くなられた。漢旺ではどれだけの人が亡くなったのか。ネットで調べてみると出て来る数字もあるが、私にはそれが信じられなかったし、その数について明確な説明をする情報も見当たらなかった。

ただ、地震遺跡を見る限り、多くの人が亡くなられたことだけは間違いない。復興を断念し、町まるごとを放棄せざるを得ないほどに、被害は甚大であった。

漢旺中心幼稚園

この幼稚園のことは、私も何度か中国の報道を見た記憶があった。校舎が倒壊して、多くの子供たちと教師が犠牲となった。ネットで見ると、この柵の内側へ入り、校舎の中に入った写真も見かけられる。私も人目を盗んで(いや、そもそもここには私一人しかいないが)、中に入ってみようかと思っていたけれど、実際にここに来てみると、柵を越えようという気には全くなれなかった。

漢旺中心幼稚園跡地。ここでは多数の園児と教師が亡くなられた

ここでたくさんの子供たちが、お昼過ぎの昼寝の時間に地震に襲われ、崩落してきた建物の下敷きになって命を落としたのだ、教師も一緒に…。分厚いコンクリートのカタマリの下から小さな遺体を掘り起こした救援隊の無念、がれきの山の中に奇跡を探しにやってきた親族の悲しみが、まだこの場に残されているような…重苦しい気持ちで、柵の外に立ち続けるだけで精一杯だった。

幼稚園の壁に描かれた遊ぶ子供たちの姿、中庭に残された鮮やかな色の遊具を見ていると、今にもはしゃいだ子供たちがかわいい声をあげて飛び出してきそうだが、ただ雨音が響くだけで、誰の声も聞こえない。土砂降りの雨の中で写真を撮り続ける…レンズもファインダーも雨に濡れてちゃんと見えないじゃないか…なぜだろう? ぬぐってもぬぐってもちゃんと見えない。いや、これは雨じゃなくて、涙なのだとやっと気づいた。ファインダーごしに中庭の遊具を見ていると、いろいろと思い出して、グシャグシャに泣き出してしまった。私がこの1週間旅をした四川省の人々は、この悲しみに耐えて今日まで生きてきたのを知ったからだ。ここにいると無性に悲しい。でも、私が四川取材の最後に、ここに来たのは正しかったのだ…そう確信した。

廃墟と化した幼稚園の校舎の中庭に、鮮やかな色で塗られた遊具が残されていた

公安局に出頭

ホテルに戻ると、見知らぬレディーがロビーにいた。 歳は40過ぎか…なかなかの美女である。派手なスーツに身を包み、有名ブランドのいかにも高価そうなハンドバッグを持っている。気取った姿は女優かモデルみたいだ。レディーは私を一瞥すると、私の名前を口にした。そばにいたロビー係の老夫婦が「そうだ、この人だ」と彼女に伝えている。何やらマズイことが起きているのを私は悟った。

レディーはホテルのオーナーだった。外国人の客はあまり来ないため、ロビー係を任せている老夫婦は、宿泊手続きで「誤り」を犯した。この町に来た外国人は到着の24時間以内に公安局で登録をしなくてはいけない。私はこの時すでに到着から3日が過ぎていた。だからすぐに公安局へ出頭しなくてはいけない…というわけだ。

「明日の朝には町を離れますから、公安局へ行かなくても良いのでは? 黙っていればわからないでしょう」と私はほほ笑みながら答えたが、レディーは厳しい口調で、今すぐ公安局へ行かねばなりません…と繰り返した。

不安であるが、従うほかに選択肢はない。私はレディーの車に乗り込んだ。

* * * * *

いろいろと覚悟していたのだが、公安局に着いても取り調べはなかった。私が警官に挨拶しても返事すらなく、ただパスポートだけを要求された。レディーが、「彼は明日帰るそうです」と言ったが、警官はそれを気に留めているようにも見えなかった。警官は不機嫌そうな中年男で、終始私を見ようともせず、ただ黙々とパスポートのスキャンを取って、簡単な書類を書き込んだだけで「登録」は済んだ。

ただ最後、警官が私にパスポートを返す時に、軽蔑するかのような眼差しで私をにらみつけ、意味ありげに「フンッ」と鼻をならした。すぐ登録に来なかったことを怒っているのか、被災地を見物に来た「ヨソモノ」に対する敵意なのか…たぶん、その両方を込めた「意思表示」なのだろう。

* * * * *

この道の向こうの山間に、地震跡地となった旧市街がある。滞在中は激しい雨が降り続いたが、取材最後の午後にようやく晴れた。雨に洗われた空は澄み渡り、山の緑が輝き美しかった

ホテルへ戻る車の中で、レディーが「この町はいかがでしたか?」と聞いてきた。「自然が豊かで、空気が良くて、静かな町ですね…」と私は答えた。それは、今の中国ではとても貴重なことであった。

「みなさん、そうおっしゃるんです。…でも、地震がなければ、みなさんここに来ることもなかったのです…」と寂しそうに、彼女は独り言のようにつぶやいた。

それから、レディーは地震後の町について教えてくれた。復興支援があっても、往時のにぎわいは戻らず、町を離れる人が少なくないこと。地震遺跡は新たな「観光名所」となったが、ほとんどの客は日帰りで宿泊する人はまれであり、町の経済にはほとんど寄与していない…など。どこかで似たような話を聞いた気がした。

大きな災害に遭遇すれば、国籍も人種も関係ない。日本人も中国人も、同じ人間として、似たような苦悩の中に生きているのだ…と私はこの旅を通じて理解した。そこに根ざして考えれば、我々はもっと助けあって、仲良く出来るのかもしれない…そんな思いを持って、私は四川の旅を終えたのであった。(完)

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