《111回》撕裂2・0(分裂2・0)

《111回》
撕裂2・0

(分裂2・0)

香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。(立教大学法学部政治学科教授 倉田徹)


香港社会の分裂
777票で親政府派の分裂は解消

行政長官選挙で当選を果たした林鄭月娥氏(中央)

容易でない民主派との関係修復

新長官への痛烈な批判

 今回のキーワードは「撕裂2・0」、日本語に訳せば、「分裂2・0」となります。この言葉は3月14日、行政長官選挙候補者のテレビ討論会で、曽俊華・候補から林鄭月娥・候補に向けて発せられたものです。

 曽氏は林鄭氏に対して、なぜあなたは多くの市民から「CY2・0」と呼ばれていると思うかと尋ねました。「CY」は梁振英・行政長官(C・Y・Leung)を指します。林鄭氏は「CY1・0が出馬しなかったから、その代替物を見つけて怒りをぶちまけたい人がいるからでしょう」とかわしましたが、曽氏はこれを受けて、「社会はあなたが当選したら『撕裂2・0』になると恐れているのです」と、林鄭氏を批判したのです。

 梁長官の在任中、大きな問題となったのは社会の「撕裂」でした。反国民教育運動、「雨傘運動」、そして旺角の騒乱や香港独立論争など、大規模な抗争が続いたこの5年間、社会はいずれの論点においても賛否両論に「撕裂」し、梁長官は強硬な言動で火に油を注ぎました。不人気を極めた梁長官は、結局その報いを受ける形で再選の断念に到りましたが、支持率においては曽氏より劣る林鄭氏が、中央政府の圧倒的な後押しを受けて最有力候補になりました。ソフト路線の曽氏ではなく、「雨傘運動」に強硬に対応した林鄭氏が北京から支持されたことから、梁長官がもたらした社会の「撕裂」を、林鄭氏が引き継ぐとの疑念を持つ者は多く、「撕裂2・0」は、見どころの少なかった今回の行政長官選挙戦において、数少ないキーワードの一つとなったのです。

親政府派の「撕裂」の解決

 3月26日の行政長官選挙において、林鄭氏は777票を得て当選しました。この票数から言えることは、親政府派の「撕裂」が解消したことでした。

 対抗馬の曽氏は365票、胡国興氏は21票でした。1194名の選挙委員のうち、民主派が少なくとも325名おり、彼らは林鄭氏には投票しないとしていましたので、林鄭氏は約860の親政府派の票のうち、9割を固めての当選であったと言えます。このことは、梁長官の獲得票数にして、梁長官を罵倒する言葉としても用いられた689票を単純に上回ったということを超える、大きな意味を持ちます。

 5年前の行政長官選挙は、今回よりもずっと「面白い」選挙でした。当初から大本命とみられていたのは唐英年・候補でしたが、選挙戦の途中で唐氏に関する様々な個人的スキャンダルが次々と暴露され、急失速して梁長官に抜き去られたのでした。その際の得票は、梁長官689票に対し、唐氏は285票、民主派の何俊仁・候補が76票でした。当時民主派の選挙委員は200人程度でしたので、当選した梁長官も、親政府派の7割弱しか固めることができなかったのです。政治的に北京を支持する「左派」の人たちや、中国資本の企業関係者、そして香港の中小財閥の関係者が梁長官支持に回った一方、大財閥など香港の真の意味での「エスタブリッシュメント」は、唐氏支持であったとされます。

 現行制度では、彼ら香港財界人は単に社会の重要な力であるだけでなく、職能別選挙という特殊な制度の下で、立法会や行政長官選挙委員会に過剰な議席を与えられています。梁長官の時代、唐陣営は隠れ野党的な立場に置かれました。香港内部での政権基盤が脆弱であるだけに、梁長官はますます北京の支持を必要とし、北京が喜ぶ強硬路線をエスカレートさせざるを得なかったとも言えそうです。

 林鄭氏が親政府派の幅広い支持を受けたことを象徴したのは、選挙直前の3月22日に「香港一の富豪」李嘉誠氏が会見して、もし二者択一ならば、香港市民よりも中央政府の信任を得ることが新しい長官には重要と述べて、林鄭氏支持を強く示唆したことでした。李氏は前回の選挙では唐氏を指名し、最後まで梁長官に対し否定的でした。今回は長く態度を示しませんでしたが、最終的に李氏が林鄭氏支持に回ったことは、前回選挙の「梁陣営」と「唐陣営」の「撕裂」が解消したことを意味するのです。

民主派との「撕裂」は解けるか

 その意味では林鄭氏の基盤は梁長官よりも安定していると言えそうですが、問題は市民や民主派との「撕裂」です。

 選挙戦を通じて、林鄭氏の支持率は曽氏を下回り続けました。大きなスキャンダルや決定的な失言はなかったものの、「疲れた」「遠い」との理由で予定していた天水囲の視察を「ドタキャン」するなど、明らかに市民への訴えは手抜きの感が強く、バスで市内を回り、最後にセントラルで大規模な集会を開いた曽氏と比較して、市民の側を向いていない印象を与えたことは否めません。当選に必要なのは市民ではなく、選挙委員の支持であるという制度の枠組みに合わせて、林鄭氏は有能な公務員らしく、「適切な」行動をとったと言えますが、当選と同時に市民にも向き合わねばならないのが行政長官です。今回、林鄭氏に一票も投じていない(はずの)民主派との関係を修復できなければ、「撕裂2・0」のレッテルから逃れることはできません。

 777票はカジノなら大当たり、そして林鄭氏はカトリック信者であり、キリスト教で7は神聖な数字です。他方、広東語で7は罵り言葉にも使われ、決して良い数字ではありません。この数字への様々な読み解き自体、「撕裂」を象徴します。林鄭氏は現在、7月1日以降の政府人事を検討しており、それが夢に出るほど悩まされていると述べています。本当の意味で「撕裂」を解消するには、社会の様々な層や集団からの人材を政府に招き、幅広く協力を求めることが必要になります。「撕裂2・0」を言った曽氏の最大のスローガンは、「撕裂」の逆の「團結」でした。「曽俊華現象」とも言われるほどに曽氏が人気を誇ったことからも、多くの市民が団結を希望していることは明らかです。しかし、「梁陣営」「唐陣営」はもちろん、民主派をも取り込んで、中央政府の信任とともに、市民の支持を勝ち取るという理想を実現するのは、ここまで「撕裂」が進んだ香港において容易な仕事ではないでしょう。

(このシリーズは月1回掲載します)

筆者・倉田徹

立教大学法学部政治学科教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、035月~063月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞

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