見る者を圧倒する社会派映画

見る者を圧倒する社会派映画

『一念無明』のポスター(写真提供・Golden Scene)

有名俳優がノーギャラで出演

 昨年末からアジアの映画界を震撼させている一本の港産片(香港映画)がある。タイトルは『一念無明(Mad World)』。監督は本作が長編デビューとなる黄進(ウォン・ジョン)。若干28歳の新鋭が撮った作品がなぜ、そこまで多くの人々を惹きつけているのか?

 若き映画人の育成のために、香港特区政府が始めた「首部劇情電影計劃」の1本に選ばれ、製作が始まった本作。500万香港ドル程度の援助金は出ているが、低予算作品であることは間違いない。そんななか、キャストのクレジットには余文楽(ショーン・ユー)、曽志偉(エリック・ツァン)、金燕玲(エレイン・ジン)という有名俳優の名が並ぶ。私生活でも監督のパートナーである、同い年の陳楚“‮٢‬(フローレンス・チャン)によって書かれた脚本は商業的なにおいを微塵も感じさせなく、とにかくヘビーの一言。

 物語はうつ病を患った主人公が、父親に連れられて精神病院を退院するところから始まり、バストイレ共有、部屋には二段ベッドだけの共同アパートの2人の新たな生活が描かれていく。その後、明らかになるのは主人公の介護中に事故死した母、彼女に介護を任せて家を出たトラック運転手の父、そして米国に永住した弟の存在。それらが主人公のうつの原因につながっていくが、2人には厳しい現実が待ち受ける。先の有名俳優たちもノーギャラで出演を決めたという脚本は、まさに他人事とは思えない現代社会を鋭く描いている。

 そんな本作で、親子役を演じる余文楽と曽志偉といえば、黒社会における疑似親子関係を演じていた『無間道(インファナル・アフェア)』シリーズや、そのパロディー作『精裝追女仔2004(インファナル・アンフェア 無間笑)』などが思い浮かぶだろう。だが、本作における2人の迫真の演技は、容赦ない黄進監督の演出と相まって、過去作と比較にならないほど素晴らしいものになっている。もちろん2人だけでなく、救いを求めて宗教に走ることになる主人公の恋人を演じる方皓玟(シャーマイン・フォン)や、アパートの同居人を演じる脇役陣に至るまで鳥肌が立つほど。

すでに日本やマレーシアでも高評価

 従来の港産片にありがちなエンタメ性や救いはないものの、とにかく見る者を圧倒してしまうパワーを秘めた『一念無明』。新人監督賞と金燕玲が受賞した昨年11月発表の台湾金馬奨に続き、香港電影評論学会大奨では監督賞と脚本賞、推薦映画賞を受賞。さらにマレーシアの金環獎では曽志偉が、日本初公開となった大阪アジアン映画祭では作品がグランプリを受賞してしまうなど、香港での本公開を前にして、その快進撃は止まらないものになっていた。そして本公開後、今月9日に発表される香港電影金像奨でも、監督・脚本・俳優など全7部門、8人が候補になっているだけに、その結果は気になるところであり、それ次第では日本公開もそう遠くはないはず。

 そんな『一念無明』ですら候補にならなかった作品賞など、金像奨で受賞を分け合うと言われているのが、中国本土のネット世代の女流作家・安妮宝貝(アニー・ベイビー)の小説を映画化した『七月與安生(七月と安生)』。長きにわたる女同士の友情を描き、先の金馬奨や評論学會大奨などで女優賞を総ナメにしているわけだが、本作の監督は、なんと曽志偉の息子である曽国祥(デレク・ツァン)。こちらも長編(単独)初監督作にして、国内外で高い評価を得ており、一部マスコミでは「親子対決」としても盛り上がっているほど。

 ちなみに、過去に曽志偉がプロデュースしているオムニバス作品『澳門街』と『Good Take!』では、すでに競作していた黄進と曽国祥。去年の金像奨では主役となり、今年7月の日本公開も決まった『十年』の監督たちとともに、今後の香港映画界を変えていく大きな存在として目が離せないだろう。

筆者:くれい響(くれい・ひびき)
映画評論家/ライター。1971年、東京生まれのジャッキー・チェン世代。幼少時代から映画館に通い、大学時代にクイズ番組「カルトQ」(B級映画の回)で優勝。卒業後はテレビバラエティー番組を制作し、映画雑誌『映画秘宝』の編集部員となる。フリーランスとして活動する現在は、各雑誌や劇場パンフレットなどに、映画評やインタビューを寄稿。香港映画好きが高じ、現在も暇さえあれば香港に飛び、取材や情報収集の日々。1年間の来港回数は平均6回ほど。

 

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