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最新号の内容 -20140314 No:1402
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第73回 「僭建」(違法建築)

 

明文規定のない手続き   
行政長官候補の指名めぐり浮上

 

 香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。(立教大学法学部政治学科准教授 倉田徹)

 


 

民主派の出馬は事実上不可能に
 

2017年の行政長官選挙では民主派が立候補できないこともあり得る



行政長官選挙を覆した「僭建」 

 今回のキーワードは「僭建」です。「僭」は日本語の「僭越ながら」の「僭」であり、分不相応の、職権を越えるという意味があり、法的な権限を超えるという意味も持ちます。したがって、日本語に訳せば「僭建」は「違法建築」となります。

 2012年の行政長官選挙の際、この言葉が香港紙を賑わしたことは多くの人の記憶に新しいと思いますが、「僭建」が政治問題になったのはその前年からのことでした。2011年4月、政府行政を監督する「申訴専員公署」は、新界の一戸建て建築で「僭建」が蔓延しており、政府がこれを正しく取り締まっていないと批判しました。

 1972年から香港当局は、新界に代々住む旧住民一族の18歳以上男子に限り、生涯に一度3階建てまでの小型住宅を建築する権利を認めています。これには、香港の都市化が進展し、新界にニュータウン開発が及んだことに対する旧住民の反発への対策という側面がありました。しかし、この権利は濫用され、屋上に小屋を付設するなど、違法な増築が横行していたのです。新界旧住民の特権への一般市民の反感も強く、取り締まり支持の世論が高まりましたが、その間メディアにより、新界旧住民のみならず、不動産を所有する様々な者が「僭建」を行ったケースが次々と暴かれました。その中には立法会議員や政府高官も含まれ、当時の曽蔭権・行政長官も違法にベランダを改造していたことが発覚しました。

 そのクライマックスは、2012年の行政長官選挙の1カ月あまり前に暴露された、唐英年・候補の豪邸に設けられた「宮殿」とも称される巨大な地下室の「僭建」でした。唐英年氏の浮き世離れしたイメージがさらに定着するとともに、責任は妻にあるとの説明も最悪で、最有力候補であったはずの唐英年氏は梁振英・候補の逆転勝利を許してしまったのです。当時は不動産価格が高騰し、不動産を所有する者としない者の間で大きな格差が生じ、開発業者の横暴に対し「地産覇権」との非難が高まっていただけに、世論は「僭建」に大きく反応しました。

 もっとも、勝った梁長官も当選後に「僭建」を暴露されて支持を失い、今に至る支持率低迷のきっかけを作ってしまいました。他方、新界の「僭建」の取り締まりにあたった当時の林鄭月娥・発展局長は、新界旧住民の激しい抵抗に屈しない姿勢が市民から幅広く好感され、現在は政務長官に抜擢され、高い支持率を維持しています。「僭建」は行政長官選挙を覆したのみならず、現在の民意状況を生み出す基礎的な要因になったともいうことができ、近年の香港においてその破壊力は計り知れないのです。

 

法律の「僭建」

 ところで、最近の香港政治では、これとは異なる文脈で「僭建」という単語を目にするようになりました。

 2017年の行政長官選挙と2016年の立法会議員選挙の方法について、政府は昨年12月に諮問文書を発表し、5カ月間の諮問に入っていますが、この文書の中には喬暁陽・全人代法律委員会主任による2013年3月の「指名委員会が行政長官候補を指名するのは一種の機関による指名である」との発言が引かれていました。基本法などの法的文書にそのような明文規定はなく、これを民主派は法律の「僭建」であると非難しているのです。

 2007年の全人代常務委の決定によれば、指名委員会は「現在の行政長官選挙委員会の構成を参考にできる」とされており、最近ではこの「できる」にあたる「可」という中国語は、英語で言えば「must」、すなわち「しなければならない」との意味で解釈すべきであると、梁愛詩・基本法委員会副主任らが主張しています。現在の行政長官選挙委員会が圧倒的に親政府派で占められていることを考えれば、仮に指名委員会が行政長官選挙委員会と類似の構成になった場合、一定数の委員の推薦ではなく、委員会全体の機関としての意思表示として、例えば多数決で候補者を選定するならば、民主派の出馬は事実上不可能になります。喬暁陽氏の発言に対し民主派が抵抗を感じるのはよく分かります。

 しかし、この件について仮に法律の「僭建」があったとしても、それを「取り締まる」ことは極めて困難です。2004年、全人代常務委は基本法を解釈し、選挙制度の改革を発動する際の手続きとして、「行政長官が改革の意思を中央政府に伝え、全人代常務委が改革の可否を判断する」という、明文規定のない手続きを一方的に設定し、それに基づき2007年の行政長官普通選挙を却下しました。法律の「僭建」とも見えるような方法であっても、基本法の解釈権や政治体制にかかわる問題の決定権は中央政府にあり、香港はどうすることもできないのです。

 

行政長官普通選挙は実現するか?

 最近の動向を見る限り、諮問を経て今年末にも発表される選挙制度改革の政府案は、保守的な内容になりそうです。そうなった場合、2017年の行政長官普通選挙は実現できるのでしょうか。

 鍵は政府案を否決できる27議席を立法会に持つ民主派の態度です。仮に法律の「僭建」を合法化するような形で、民主派が出馬できないような保守的な政府案が出てきた場合、民主派政党は「中環を占領せよ」を発動すると言っており、バンコクのような状況が香港に出現する可能性があります。一方、学生団体の「学民思潮」は、2010年5月に公民党と社民連の立法会議員が辞職して民意を問うた「擬似住民投票」の実施を主張しており、こうなると橋下市長が出直し選挙を行う大阪と同じことが起きるとも言えます。

 ただ、非合法の街頭デモも、住民投票も、中央政府が極めて忌み嫌う手段です。仮にこれらが実施された場合、中央政府は民主派に激しい非難を加え、さらに態度を硬化させることは間違いありません。そうなれば中央政府と民主派は物別れとなり、普通選挙導入は失敗となります。穏健民主派が妥協する可能性は残っているものの、その場合は民主派内部の急進派が穏健派への攻撃を強め、両者の対立が悪化するでしょう。いずれにせよ、午年の香港政治は不穏な空気に包まれることになりそうです。

(このシリーズは月1回掲載します)
 


筆者・倉田徹

立教大学法学部政治学科准教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、03年5月〜06年3月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞