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最新号の内容 -20111007 No:1343
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辛亥革命100周年
孫文と香港、その足跡

 中国の革命の父と呼ばれる孫文(1866〜1925年)。辛亥革命に至るまでの革命思想は香港ではぐくまれたとされ、彼の人生の重要な節目にはいつも香港が登場する。今回は彼が主に活動していた香港島西部を中心にその足跡をたどってみた。街の様子は当時とすっかり変わってしまったが、彼の息遣いや足音が、ひょっとしたら聞こえてくるかもしれない。(文・写真/上野彩)


香港島西部を歩く

中山記念公園の中央に立つ孫文の銅像

 「わたしの革命思想は香港から生まれた」。孫文がかつて自分も通学した香港大学(旧香港西医書院)の演説でこう語ったのは、辛亥革命が成功してから12年後、上海から広州へ帰る途中の1923年2月のことだ。この香港大は1996年に中西区区議会が生誕130周年を記念して設けた西營盤から中環(セントラル)までの「中山史跡巡りコース(Sun Yat-sen Histrical Trail)」のスタート地点となっている。総距離約3キロ、所要時間約2時間のコースとされているが、初めて訪れる人には耳慣れない道の名前と坂の上り下りで実際は半日くらいかかる。

香港大学


 中環山間部にある孫中山記念館。香港の富豪・何東の弟、何棠第の邸宅(1914年建築)を改修して、香港歴史博物館の4番目の分館として2006年に生誕140周年を記念して開館された。2つの常設展示から成り、彼の人生を貴重な写真とともに振り返ることができるようになっている。孫文と香港との関係性や活動などを中心に取り上げているのが特徴。講座や特設展示などもあるので、事前にチェックしておくことをお勧めする。なお、エドワード調に建てられた建物自体も、06年11月に法定古跡に指定されており、一見の価値がある。

 香港の中華レストラン「杏花楼」。1846年に開業した同店は今でも人気店だが、孫文率いる興中会メンバーが当時、上環・水坑口(Possession Street)付近にあった同店に頻繁に出入りし、秘密会議を行っていたことは意外と知られていない。1895年7月8日には、孫文、楊衢雲、何啓、地元有力紙・徳臣西報(China Mail)の記者、トーマス・H・レイドがここで広州蜂起の謀議と対外向けの英文宣言文を書いたとされる。

 香港有数の飲食街SOHOにある士丹頓街13号は、香港興中会本部があった場所だ。現在は商業ビルが建ち、残念なことにそれと示す表示も立っておらず、閑散としている。半面、士丹利街24号は孫文派の1人、陳少白が起こした「中国日報」の社屋があった場所で、現在は老舗飲茶レストラン「陸羽茶室」で知られる。通りの向かい側には、史跡コースであることを示す表示が立っている。

 史跡コースから少しはずれてみよう。香港大学から海側へ下ると、香港・マカオフェリー乗り場の隣接地にある中山記念公園に着く。かつて広東省深‮&‬`市と香港を結ぶ九広鉄道が敷設されるまで、香港・マカオフェリー乗り場(海岸線は現在と異なる)は香港と中国本土各地を結ぶ重要な玄関口で、孫文自身が初めて香港に足を踏み入れ、最後に旅立ったのもフェリー乗り場だった。テロリストとして英当局から香港島への「入境」を一時禁止されたこともある人生を振り替えると、園中央に立つ孫文の銅像がどこか誇らしげに見えてくる。


新界地区へ 
「法定古跡」となった革命基地

元朗・下百泥村の防御基地

 今年6月、香港古物事務監督は新界・元朗地区西岸部にある下百泥村の防御基地下百泥55号を「法定古跡」に指定したと発表した。この基地が建設された時期は1910年ごろで、香港で唯一、確実な根拠と証明のある孫文と革命メンバーの革命運動に直接関係した建築物だとされた。今年下半期をめどに付近に展示施設を設けるという。

 下百泥村は香港で「夕日が最も美しいスポット」として写真愛好家やカップルに人気の場所。基地は村役場のちょうど向かい側の、後海湾と深‮&‬`を望める場所にある。広州蜂起後の1910年ごろ、革命メンバーの隠れ家として、後海湾対岸の清朝管轄地の監視場所として、興中会の主要メンバーだった‮>‬H蔭南氏が立地の良さを理由に建設したとされる。‮>‬H氏の本籍地は広東省開平で、かつて米ホノルルに渡り農業と製糖工場を営んだ。孫文の兄・孫眉とは友人関係だった。そんな‮>‬H氏のアイデアなのだろうか、基地は表向き米製粉場と製糖工場とされていたという。   

 
屯門の革命運動拠点「紅楼」

 元朗から少し南に位置する新界・屯門に、重要な革命運動拠点の紅楼がある。革命時期、この場所は青山農場と呼ばれた農場で、孫文や興中会メンバーが革命のための謀議をめぐらせたほか、革命同志たちの隠れ家として利用された。今ではすっかり色あせてはいるものの、その名のとおり赤い壁の建物で、現在も人が住み、住宅として利用されている。この紅楼から少し離れた公園内に「孫逸山博士記念碑」があり、碑の前には国父・孫文の半身像が添えられている。


孫文と取り巻く人々のゆかりの地

 上述の場所以外にも、孫文のゆかりの場所はたくさんある。このほか跑馬地(ハッピーバレー)・黄泥涌の香港革命軍総司令部、香港墓地の楊衢雲の墓、西貢・坑口地区の孫文の母・楊太夫の墓などのように、香港には彼と深く関わった人々ゆかりの地もたくさんあるので、余力があれば、ぜひ訪れたい。

楊衢雲書館(結士街52号)

 そのうちの一つ、香港初の革命組織・輔仁文社の創設者で、後に孫文らが興した香港興中会と合併して、興中会の初代会長を務めた楊衢雲(1861〜1901年)の墓碑が、跑馬地・香港墓地に立っている。  

 楊氏は恵州蜂起失敗後の1901年1月10日に清朝の刺客に暗殺され、同月12日にこの場所に埋葬されたが、墓碑の破壊を避けるために名前は記されず、「6348号」という数字だけが刻まれた。

 1世紀以上を経た今年9月下旬、辛亥革命100周年に合わせ、康楽・文化事務署が説明碑を設置。名前のほかに、出身地や経歴、など「革命烈士」としての活動の軌跡が中国語と英語で併記された。

 なお、墓碑の頭部が切断されているが、生前に暗殺という悲劇に見舞われたことと、楊氏への哀悼の意味が込められているという。


孫文とその他のゆかりの場所

①孫中山記念館所在地:中環半山衛城道7号開館時間:月〜水、金・土 午前10時〜午後6時 日・祝日 午前10時〜午後7時入館料:大人10ドル、子供、高齢者、学生5ドルホームページ:http://www.lcsd.gov.hk/CE/Museum/sysm/b5/index.php



②「中山史跡巡りコース(Sun Yat-sen Historical Trail)」
⑴香港大学本館 般咸道  
 1911年に創立した香港大学の前身は香港西医書院。孫文が1923年に来港して母校を訪れ、講演を行った

⑵抜萃男書室 東辺街入口(9A号) 
 孫文が1883年11月に故郷・広東省香江を離れ、来港した際に入学した英語学校。国籍の異なる学生が集まる寄宿生の学校だった。現在は般咸道官立学校となっている

⑶同盟会招待所 普慶坊      
 香港同盟会が香港島内に数多く保有していた革命同志の隠れ家の一つ。表向きは「招待所」となっていた 

⑷米国公理会福音堂跡 必列者士街2号 
 1883年末に孫文が洗礼を受けた場所。また、1884〜86年の中央書院に通学していた時に住んでいたことがある

⑸中央書院跡 歌賦街44号 
 中央書院は1862年に創立。香港初の官立中学で、西洋式の教育を施した。孫文は1884〜86年に高年級で学んだ

⑹楊耀記 歌賦街8号 
 孫文の幼なじみで、「四大寇(しだいこう)」の1人、楊鶴齢の店。4人がよく集っていた場所

⑺楊衢雲書館 結士街52号  楊衢雲らが画策した1900年の恵州蜂起失敗後、1901年1月10日に清朝からの刺客に暗殺された

⑻輔仁文社 百子里1号 
 楊衢雲と謝纉泰が創立。1895年に興中会と合併した。

⑼維多利亜書院(1889〜94年)・皇仁書院(1894〜1950年)。
 鴨巴甸街と荷李活道の交差地点 前身は中央書院で1889年にこの場所に移転。維多利亜書院と呼ばれた。1894年に皇仁書院に改称し、50年に銅鑼湾に移転した

⑽雅麗氏利済医院付属香港西医書院跡地 荷李活道77—81号 孫文は1887〜92年にここで医学を学んだ



⑾道済会堂跡地 荷李活道75号 
 孫文が医学研修生だったころ礼拝に訪れ、よくここで活動していた

⑿香港興中会跡地 士丹頓街13号 
 1895年に香港興中会発足後、ここに拠点が置かれた。表向きは「乾亨行」という社名を掲げていた

⒀杏讌楼西菜館 擺花街2号 
 孫文がよく訪れていたという西洋レストラン「杏讌楼」があった場所。初期の革命同志たちの多くがここから近い威霊頓街に住んでいた

⒁中国日報報館 士丹頓街24号 
 1900年1月、孫文派の陳少白が創立した「中国日報」が置かれていた場所。清末に「反清革命」を掲げた初の新聞社だった。現在は老舗の飲茶店で有名な「陸羽茶室」のある陸羽大廈となっている。

⒂和記桟鮮果店3楼 威霊頓街20号・徳己立街 
 革命メンバーの活動拠点のひとつで、果物屋を看板に掲げていた。謝纉泰らが画策した1903年の「大明順天国」広州蜂起をここで練った

③香港大酒店と英皇大酒店  ともに徳輔道中にあったホテルで、孫文が1912、22、23年に香港を訪れた時に宿泊した。香港大酒店は海側に、英皇大酒店は現在の雪厰街付近にあった

④紅楼  孫文が興中会メンバーと謀議をめぐらせた新界の拠点。軽便鉄道(LRT)「胡蝶」駅を下りてすぐの中山公園の隣にある〈孫逸山博士記念碑〉 1969年に建てられた記念碑で、紅楼を通り過ぎていくと目に入る

⑤楊太夫人の墓 新界・西貢・坑口百花林墓地 1910年に逝去した孫文の母の墓。見晴らしのよい百花林村の山間部にある

⑥香港革命軍総司令部跡地 香港・黄泥涌35号 黄興や胡漢民らが設立した辛亥革命軍の総司令部があった場所

⑦楊衢雲の墓 香港墳場

⑧中山記念公園

⑨ビクトリア港

⑩元朗・下白泥55号 孫文革命基地として法定古跡に指定された

関連ホームページ・資料
香港政府観光局「辛亥革命百周年」
http://www.discoverhongkong.com/tc/attractions/culture-1911-revolution.html香港特区政府康楽及文化事務署・古物古跡弁事署・「中西区文物徑」http://www.lcsd.gov.hk/CE/Museum/Monument/b5/trails.php香港大学・「孫中山在香港」
http://www.lib.hku.hk/syshk/index.html


香港との深いかかわり

 日本を含む欧米列強が他国に相次いで進出し、植民地化政策を取った激動の19世紀後半、1866年11月12日、孫文は広東省香山県(現中山市)で生を受けた。

 彼が香港にやってきた17歳当時、香港は英国植民地下ですでに自由港として知られ、モノと人が行き交う国際都市であり、中国にとっては西洋の思想や文化を知ることができる貴重な場所でもあった。若き孫文はそんな中で、革命をともに論じられる同志に出会い、医学の道を捨てて、革命活動を進めるようになった。生涯で「打倒清朝」を掲げ起こした武装蜂起は計10回。そのうちの6回の謀略は、この香港で練られた。

 革命時期の香港は孫文らにとって武装蜂起の謀議をめぐらせるだけではなく、資金調達や武器輸送、同志たちの集合、宣伝・世論の発信、海外華僑との連絡を行うための重要拠点でもあった。孫文を支援した日本人実業家、梅屋庄吉と出会ったのも香港である。革命の実現と香港は切り離せない存在だった。 孫文は名を文、幼名を帝象、字を載之、号は中山、字は日新、後に逸山。日本では中山樵として活動していた。このほか、革命運動の人生で使用していた名前は数多く存在するが、それは同時に彼の革命への希望と生きた軌跡そのものだったのかもしれない。専門家によると、孫文は通常、「孫文」で通していたようだ。彼が書類に書いたサインに「孫中山」とは記されていないことが根拠となっている。英語表記の場合に「Sun Yat-sen」と孫逸山の名前を使用していたようだ。

 1895年に香港政庁から駆逐令が出された後も、ビクトリア港の船上で革命同志たちと革命作業に関する何度も議論を行っていたという孫文。辛亥革命は、決して彼だけの力で成し得たのではなく、歴史上のあらゆる事件・事故と同じように、あらゆる偶然が重なっただけとも言えるかもしれない。しかし、17歳のあの日、孫文が香港に下り立たなければ、辛亥革命は存在しなかっただろう。