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最新号の内容 -20161021 No:1465
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鄭裕‮彤

新世界発展の創業者である鄭裕彤氏が死去した。世界長者番付にも掲載された香港4大富豪の1人だ。
 

 新世界発展の創業者・鄭裕彤氏が9月29日、自宅で死去した。30日付香港各紙によると、91歳だった。新世界発展の現主席で息子の鄭家純氏の話では、4年前に脳出血を起こして大手術をして以降、こん睡状態だったという。鄭氏は米誌『フォーブス』の世界長者番付にも掲載される香港の富豪の1人。幼いころは貧しかったが、父親の友人が開いた宝飾品店「周大福」に入社、後に周大福創業者の娘婿になり、1956年に同社を引き継いだ。70年に設立した新世界発展集団は不動産デベロッパーをはじめ、エネルギー業、小売業、運輸業などを手広く手掛けており、有する4つの上場企業の資産価値は2025億ドルを超える。新巴(ニューワールドファーストバス)、城巴(シティバス)、北大嶼山巴士(北ランタオバス)、新渡輪(ニューワールドファーストフェリー)、大老山隧道(大老山トンネル)も同集団が運営している。

 順徳なまりの抜けない、朴訥とした鄭氏は1990年1月、いったんは引退を表明。息子の鄭家純氏にトップの座を譲り、自身は顧問に収まったが、翌年には会長職に復帰。2012年に引退した。

 鄭氏は、1925年8月26日、広東省順徳市の雑貨商に生まれた。1940年、日本軍が侵略。商売が続けられなくなった父親の鄭敬詒氏は鄭裕彤氏を、マカオで貴金属の「周大福金店」を経営する親友、周至元氏のもとに預ける。鄭氏は小学校を出たばかりで15歳。以後、鄭氏は二度と学校で学ぶことはなかった。

 鄭氏は周大福で丁稚奉公を始めた。店舗の清掃、まき割り、便所掃除からたんつぼの後始末までやらされた。故郷の戦渦に心を痛めながら、鄭氏はだれよりも早く出勤し、ひとときも休むことなく、仕事を最後まで完全にやり終えた。暇ができると、外に遊びに行くこともなく、経理や仕入れ、販売などの「上級職」を見よう見まねで学んだ。年下の店員にも頭を下げて、教えを請うたという。

 店主の周至元氏はそんな鄭氏の働きぶりをじっと見ていた。

 「これは大変な宝物を手に入れたかも知れない」

 周氏は内心、喜んだが表情には露も出さなかった。鄭氏がおごるのを恐れたのである。周氏はさらに、鄭氏の働きぶりを観察することに決めた。

 あるとき、鄭氏は続けて一時間以上も遅刻した。こんなことは初めてである。周至元氏はいつカミナリを落とそうかと不機嫌な毎日を送った。そんなとき、鄭氏が現れ、近所にライバル店ができたこと。どういう商品を置いているのか、その観察をしていたことを報告した。

 3年後に周至元は鄭氏をチーフマネジャーに引き上げ、こう言い渡した。

 「お前の商売の才能はすばらしい。運もいい。娘と結婚しろ」

 鄭氏18歳、娘の周翠英氏は17歳。周翠英氏は夫の運勢を勢いづけた。いわゆる「旺夫相」の持ち主だったのである。以後、鄭氏は猛スピードで人生を駆け上っていく。

 「旺夫相」—夫の運気を押し上げる妻、周翠英氏と結婚した鄭氏は、成功者への道をひた走った。

 鄭氏はマカオを制覇した後、オーナーの周至元氏から香港への上陸を命じられた。香港は規模も大きい代わりに競争も激しい。鄭氏の経営手腕が試される進出だった。

 1945年、鄭氏は目抜き通りのクイーンズ・ロード(皇后大道中)に一号店を開いた。販売力が店の盛衰を握るとみた鄭氏は、自分は管理の裏方に徹し、ベテラン社員を販売の前線に立てて店を盛況に導いた。

 鄭氏の手腕を見極めた周至元氏は56年、社長の座を鄭氏に譲る。15歳のとき雑役夫として雇われた少年は、16年後には社長のいすに座る身分となった。

 31歳の青年社長は、社員に向かって自らの事業哲学を語った。

 「人々のくらしに関係のあるビジネスにこそ大きな可能性がある。どんな時代でも女性は宝石を愛してきたし、人々はくらしの基礎である家に、なけなしの金を投資してきた。宝石と不動産が当社の柱になる」

 いったん決めると鄭氏の行動は早かった。まず貴金属に加えて宝石販売を始めた。宝石ビジネスは社員の販売力にかかっている。鄭氏は社員のやる気を引き出すために、当時は珍しかった社員株主制度を導入。帰属意識の醸成に努めた。効果はてきめん。香港参入は大成功し、周大福の年間利益は500万ドルを突破した。

 宝石が軌道に乗ると、迷うことなく不動産投資に乗り出した。1970年にニューワールド・デベロプメントを設立。同年早くも、スワイヤグループから九龍の超一等地、チムサーチョイ・イーストドックの跡地を買収。新参者でありながら、いきなりリージェント・ホテルや一大ショッピングセンターを開発し、世間を驚かせた。

 当時、鄭氏につけられたあだ名が「沙胆彤」。大胆不敵な鄭裕彤 氏である。

 確かに鄭氏の事業戦略は一種のとばく性を帯びていた。

 「人が買わない時こそ、買い時なのだ。安価で買えば必ず上がる」

 「不動産の世界は『大物は大きく賭()け、小物は小さく賭ける』」

 鄭氏のかけ声のもと、ニューワールドは一流物件を次々に落札。なかでも同社の名声を高らしめたのは、84年の香港コンベンション・アンド・エキシビジョン・センターの開発である。同センターはエクスチェンジ・スクエア、香港上海銀行、中国銀行、ボンドセンターと並んで「80年代の香港5大建築」と絶賛された。

 鄭氏にも失敗はあった。70年代半ば、スタンレー・ホー氏と組んでイランに競馬場をオープン。石油マネーを荒稼ぎしたが、79年にホメイニ氏のイラン革命がぼっ発し、競馬場は閉鎖。5000万米ドルの投資は水泡に帰した。

 とはいえ太っ腹の鄭氏が時代を先駆けていることは間違いない。とくにリスキーな中国投資ではその豪胆ぶりが機先を制してきた。ジュエリー販売では謝瑞麟と周生生を抑えて、真っ先に製造ライセンスを獲得。不動産投資でも広東省中心に拠点確保に余念がない。

 健康には敏感で、毎日プールを12往復。また大富豪にして「MTRの常連」と呼ばれていた。

(このシリーズは1カ月に1回掲載します)