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最新号の内容 -20161007 No:1464
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熊本復興と香港

②熊本県の町役場など

 今年4月に発生した熊本地震から数カ月が過ぎた。九州は香港市民にとって人気の観光地でもあり、今回の震災をめぐっても香港とはさまざまなつながりが見受けられる。復興作業が進む現地からリポートする。(インタビュアー・楢橋里彩)

 

ボランティアスタッフの皆さんが毎日炊き出しを行っている

 また地震の家屋被害はおよそ15万6000棟、震災後3か月の時点でで有感地震は1900回にのぼった。甚大な被害が及んだ益城町(約1万1000棟)は全壊が約2600棟。要注意が1283軒(約31%)、調査済みが949軒(約21%)だった。全壊率が約50%という、極めて悲惨な状態になっている。震度7クラスの大地震が発生すると、全国から「応急危険度判定員」が動員されて被災建物を調査し、「緑(調査済、安全)」「黄色(要注意)」「危険(赤色)」の3色ステッカーを張っていく。多くの被害者は自費ではなく公費解体を希望している中、今もなお解体作業は進んでいない。益城町内の全壊・半壊家屋の実に15%が益城町が集中しており、死亡者20人。家屋被害の深刻さが浮かんでおり、避難生活が長期化するなど厳しい状況が強いられる中、益城町にトレーラーハウスが配備され、障害者や妊産婦ら配慮を必要とする世帯向けの「福祉避難所」に活用されている。国内初の取り組みとして注目された益城町を取材し、町役場、避難所の現状をみてきた。

 

避難所にある物資。ペット用の物資も多い  

 

インタビュー③
熊本県益城町役場 健康づくり推進課課長 安田弘人さん

 

——甚大な被害があった益城町の今の様子はどうでしょうか。

 現在も町内の指定の避難所の5カ所に450名ほど避難されています。さらに在宅避難者といって、自宅庭にテントを張るなどして避難されている方はおよそ200名。このなかには車中泊が含まれています。650人ほどがいまだ日常の生活を取り戻していません。震災直後は1万6000人が避難していたので、随分減っていますが、この数字がゼロにならなければならないと思っています。

——今回益城町では国内でも珍しい福祉避難所として「トレーラーハウス」が導入されたということで、注目されました。どのような経緯と目的で導入することになったのですか

 被災地で支援活動をしている一般社団法人「協働プラットフォーム」(東京)が提案してくださったのがきっかけです。移動式で素早く設置できるトレーラーハウスを日本RV輸入協会から有料で借りています。障害者や妊産婦ら配慮を必要とする世帯向けの「福祉避難所」として活用されています。現在、グランメッセ駐車場に25台設置されています。

——中はどのようになっていますか。

 基本的にシャワーやトイレが備えられており、中には浴槽やキッチン、ロフト付の部屋もあります。部屋の広さは13〜35平方メートルで、ホテルの部屋のような設備です。

——伺っているだけで快適な生活ができるような印象を受けますね。

 残念ながら8月末までの期間限定なのです。ちょうどそのころに仮設住宅が完成するということもあるからです。とはいいましても現在ハウストレーラーに入居されている人のなかでは、一部損壊と診断されている人もおり、こういった場合は仮設住宅には入居が困難になるというのが現状です。町としましては、相談窓口等を開設し、丁寧な対応をしていきたいと考えています。

——つまり入居したくとも入れない人も含めると仮設住宅がまだ足りないのではないでしょうか。

 現在、1285戸の仮設住宅がほぼ完成していますが、これから270戸ほどの仮説を整備する予定で、8月下旬から募集を行う予定です。

 震災後、相当数の人口が減少していると思われますが、なるべく早く、人口の流出を抑えるとともに出て行った人たちが帰ってくる施策を講じなければならないと思っています。

 益城町は5つの町村が合併していますが、農家が多く何世代にもわたっての長い近所付き合いをしてきたような場所。だからこそ隣人との付き合いは深く、仮設住宅については、地区の割り当てがしっかりできていないとコミュニティ自体が崩れてしまいます。こうしたことも踏まえ今後の対応をしっかりと講じていかないといけません。

——震災前の街を取り戻すための見通しは?

 最終的な町の復興までには最低でも10年はかかると思っています。解体、更地にするのには3年、その後災害復興住宅つくりがあります。今ある仮設住宅は2年契約なので、その後の災害復興住宅を迅速につくっていかなければいけません。

 一方で、天草など風評被害等で観光面は大きく打撃を受けていますが、被害を受けていない場所も多くあります。また今までの状況を風化させずに本来ある自然豊かな熊本にぜひ足を運んでもらいたいですね。特に益城町はスイカの名産。ビニールハウスを二重、三重にして生産するため「日本一早くスイカを出荷し、日本一遅くまで出荷可能な町」として知られています。自慢のスイカの生産、出荷することで益城町の復興にむかって大きな一歩になれるよう頑張ります。

 

インタビュー④ 
公益財団法人 熊本YMCA 指定管理者熊本YMAC 益城町総合運動公園避難所所長代行 中村賢次郎さん

熊本YMCAの中村賢次郎さん

 ——この避難所はもともとYMCAが指定管理で町から委託をうけて運営されてきたそうですが、あの震災後にそのまま支援活動をされていますが、具体的にはどのようなことをしているのですか?

 専門的なスキルと経験を持つスタッフを現地に派遣し、熊本YMCA本体と全国YMCAや自治体および様々な団体と連携をとりながら、避難所の運営、物資の支援や、高齢者ケアや子どものためのサポートプログラムなどを行っています。現在ここには820人が避難していますが、ピークの時は1500人以上いました。

 震災発生後すぐはその日その日を回すのが必死でしたね。今でこそ、歩くスペースはあるものの寝る場所なども足の踏み場がないほどでした。水、食料確保、トイレ問題は水道がとまっていたので特に深刻でした。緊急支援当初は日赤や自衛隊が来て支援を手厚くしてくれていましたが今は運営全般をYMCAが行っています。

——震災後すぐに全国各地にいるスタッフ、特に震災経験者も派遣されたそうですね。

 震災後すぐに本部機能を持つ日本YMCA同盟と、阪神淡路震災、東日本大震災の支援活動の経験を持つ全国のYMCAからスタッフを継続的に派遣し、熊本YMCAスタッフと協働して、行政や他団体との役割分担など避難所運営のコーディネートを行いました。刻一刻と状況が変わる中、最優先事項は何か目の前の目まぐるしい状況変化に対応しながらも、毎日次の手をどう打つかを確認していきました。阪神、東日本の経験から先読みをしたり、起きうる課題を事前に少しでも解消できたことは運営上も混乱を最小限に食い止めることができたのではないでしょうか。

 またその後も避難生活が長くなる中で、それぞれのステージでも長期的な視野で計画や行政との打ち合わせができたと思います。

——高齢者が多い地域だからこそ、スタッフとして支援活動を心がけていることなどありますか?

 特にご高齢の方は郷土愛も強く、できれば益城町に残りたい、可能であれば自分の家に住み続けたい、ご近所さんはどうしているだろうと気にかける方が多いようです。

 そして健康面のケアは私たちもとても注意しています。避難生活が長くなることでの、体力の低下、健康上不安を抱えていらっしゃる方、身体を動かす機会が少なくなることに少しでも対応できるよう関係団体と協力したり、運動や憩いの場となるような様々なプログラムを提供しています。清掃や食事配布をしながらも声をかけて体調を気にかけることや、施設の衛生面の配慮は日々心がけています。

 こうした「こころとからだ」のケアが今後もっと必要になると思います。

——小さなお子さんたちもスタッフの皆さんと一緒に支援されていたそうですね。

 避難をしている小学生から中学生の子どもたちが中心になって支援活動が始まりました。「わくわくワーク隊」と名付けて、避難所の清掃、ごみの回収、新聞の配布、物資の配布、ボランティアカフェのサポートをしてきました。こんな大変な時期だからこそ元気に子どもたちが動くことで、避難されている方々にとっては微笑ましくも頼りがいのある存在でした。子どもとはいえ、やるときはやるんです。そしてみんなが困っているからこそ何か自分たちもしなければいけないという強い使命感も生まれたのではないでしょうか。この困難を乗り越え、これからの益城町を担うすばらしい大人になって欲しいと思います。

——今回の震災を経験して、どのようなことに気づかされたか、また直面している問題などありますか?

 先日、ヨーロッパからお越しになられた建築関係の方たちは、まだこんなにも多くの人が避難されている人がいるとは知らなかったと驚いていました。被災してまだ半年もたっていないのに、海外での報道がなくなっており現実が伝わっていないことは残念です。

 物資援助でもなく、資金援助だけでもないのです。風化させないためにも多くの人にこの現実を知ってもらいたいと切に願います。

 と同時にそれぞれの地でも、もし災害が起きたときにどう動くべきか、どんな協力体制をとるべきかなど、様々な事例をもとに事前に備えておくことは大切ではないかと考えます。今回は特に、日ごろからの人と人とのつながり、日本各地や海外からの「何か支援したい」という気持ちは、私たちにとって大きな支えとなりました。決して災害が起きたからだけでなく、ひとり一人が誰かのためにできることを考える、困った方に手を差し伸べる、そんな社会となれば世界中は争いのない思いやりにあふれる世界となるのではないでしょうか。

——特に益城町は被害が大きいため長期戦になると思われますが、今後どのようなことが必要になると思いますか?

 避難している人数である「820」という数字がゼロになるのを目指して支援しています。被災して3カ月経ち(取材時)、次のステップにいくための「精神的なケア」がさらに必要になってきます。特に大きな衝撃を受けた子どもたちの心のケア、高齢の方々でなかなか新たな生活への一歩を踏み出せずにいる方のサポート、避難所や仮設住宅での新たなコミュニティづくりや人間関係づくりなどソフト面での課題は多いと思います。新しい生活の場所でも、人と人が集う場、ご近所づきあいや声を掛け合える関係づくりのきっかけや、「お互い様」の気持ちで支え合える小さな社会が求められるのではないでしょうか。

 この震災を乗り越えて新しい社会づくりが本当の意味での復興となるのかもしれません。そしてそれは人がすることですし、人と人がそれぞれ足りないものを助け合って生きていく、もしかしたら昔から大切にしていた「コミュニティの再生」が必要なのだと思います。そして、こうして立ち上がろうとしている人が、コミュニティがあることに、日本全国だけでなく、海外の皆様も関心をずっと持ち続けていただくことが大きな力となると信じています。
 

インタビュー⑤
避難所の被災者女性〈60代〉

被災者の女性(左はインタビュアー)

——いつから避難所での生活をされていますか。

 4月17日の本震後からです。前震のときは自宅にいたのですが、揺れ方がいつもと違うことにすぐに気が付きました。ドーンという大きな音がして何かが突き抜けた感じでう。多分30秒くらいだったかもしれないですが、長い時間に感じました。とても怖かったです。一瞬にして色々なことを考えました。自宅が壊れるのではないか。このまま死ぬではないか。その日のうちに車中泊をしました。人生で初めての経験でした。寒かったですね。家からでるのがやっとで、何かを持ち出すという余裕がなかったというのが正直なところです。

——それ以来ここの避難所での生活は、いかがですか?

 避難所生活も3カ月になりました(取材時)。最初の頃は人が多すぎて大変でした。毛布一枚の支給で床に直接に寝ていましたし、まだ4月は寒く夜は特に冷え込んでいたので腰が痛くなるほどでした。日赤や自衛隊の方、YMCAの方、炊き出しに応援にきてくださった芸能人の方々、皆さんの手厚い支援があったので、今は安心して生活しています。

——仮設住宅が次々と造られていますが、今後の見通しは?

 現在、仮設住宅は抽選待ちなんです。全壊している家屋が多いので、競争率が高いんです。期待しないで待っているところです。自宅は全壊です。解体作業はこれからなんですよ。まだ先のことは分かりません。抽選がはずれてしまったら、また次の完成を待つしかないですから。ここでの生活は、満足しています。洗濯機、乾燥機などリクエストをしたら入れてくれました。ですが、一日も早く通常の生活を早く戻したい、それが願いです。この年齢になると、若い方たちとは異なり、今から一から始めることはなかなか厳しいですから。今の日本はどこで何が起こっても決しておかしくない状況ですよね。国も地域もそこに住む人たちのことをしっかりと考慮した対策をたててほしい。再建能力のない人たちも多いので、支援体制をしっかりとつくってほしいと思いますね。

——香港の人たちからもメッセージをもらったそうですね。

 香港のメディアの方もきてくれ、頑張れというメッセージをもらいました。嬉しかったですね。香港は行ったことがないですが温かい人が多くてありがたいです。支援、義援金もいただきうれしく思います。

日本だけでなく海外からも多くの応援メッセージが届いた