ビクトリア市を歩く 香港返還19周年
1842年、中国がアヘン戦争を経て英国に香港島を割譲した直後、英国が植民地経営としてまず着手したのは、街づくりだった。北西岸に整備したビクトリア市はその最初のエリアで、境界石と呼ばれる石碑で範囲が示された。中環を「心臓部」とし、経済・金融の中心地となる今日の香港の礎を築いたビクトリア市の面影を、今も残る境界石からたどった。(文と写真・上野彩/構成・編集部)
ビクトリア市は英語ではCity of Victoria (中国語で維多利亜城)と書き、時代の推移に伴い、その範囲が劇的に変わる。1843年に香港政庁が新都市として宣言した直後は現在の中環(セントラル)地区周辺に過ぎなかったが、中国国内の内乱に伴う難民の急増により、政府が埋め立てを通じての再開発を余儀なくされ、街の面積が徐々に拡大、19世紀後半までに現在のケネディータウンから銅鑼湾辺りまで広がった。
香港政庁は1903年に発行した憲報でビクトリア市の範囲を明示。同時に、海岸線を利用して山間部を含めた6カ所に境界石が置かれた。現在の中環、上環、西環(西営盤・石塘咀・ケネディータウン)、湾仔(金鐘・湾仔)、銅鑼湾(跑鵝区・東角)、半山区に当たる。
境界石は高さ98センチ、花崗岩製の石碑で、側面には英語でCITY BOUNDARY 1903という文字が彫られた。 以下の6カ所で確認できる。
1域多利道 西寧街北側の公園内(西端) 社会の発展に伴い、ビクトリア市の範囲は境界石で示された範囲を徐々に上回っていった。 一方、こうした状況の中、当時の華人たちはビクトリア市を「四環九約」と俗称で呼んでいた。「環」は「湾」が転じたもので、もともと水上生活者が使用し、湾とほぼ同義だったという。「約」は地区、街区に相当する。 「四環」は下環(湾仔道~軍器廠街)、中環(美利操場~威霊頓街と皇后大道中の交差点)、上環(威霊頓街と皇后大道中の交差点~ 国家医院)、西環(干諸道西~ 堅尼地城)と見なされ、「九約」は以下とされた。
第1約ケネディータウン~ 石塘咀 香港政庁が発表したビクトリア市と四環九約の範囲が当時ほぼ重なったため、四環九約=ビクトリア市として認識されることが多かった。
境界石が置かれた場所を線で繋ぐと約20キロ。全てを尋ねて一気に歩くと7〜9時間(休憩含む)かかるが、香港大学、ビクトリア・ピーク、香港公園、政府礼賓府(旧総督府)、聖ヨハネ主教座堂など、香港島中心部の観光地・名所が集まり、見所が多い。体力にあまり自信のない方は、香港公園からビクトリア・ピークに行くまで(歩行時間約40分)の舊山頂道の途中にある境界石が見つけやすい。ちょうど登り口付近にある。
英国への割譲から170年余り、来年は中国返還20周年を迎える香港。境界石はこの間、同じ場所、変わらぬ姿で見守り続けてきた。境界石をたどりつつ、現在につながる香港の歴史を改めて振り返ってみるのもいいかもしれない。 なお、香港島の南部や北角(ノースポイント)、鰂魚涌、筲箕湾などの開発は第二次世界大戦後まで待つ必要がある。
1841年、英国軍が上陸 英国は香港島領有を宣言した後、1843年に島北岸一帯を当時のビクトリア女王(1819~1901)にちなみ、ビクトリア市と命名した。土地競売も行われ、上環、中環、下環と三つの地区に分割した。
整備が最も早期に始まった中環ではクインーズロードを市街地中心部に走らせ、総督府や警察など政府庁舎のほか、道路の建設が急ピッチで進められた。そのほとんどの費用は英国がアヘン戦争で清朝に勝利して結ばれた南京条約の賠償金で賄われたという。
ただ、英国は1841年、英国軍が南京条約締結より前に川鼻仮条約に基づいて、香港の大笪地に初めて上陸している。現在の上環・水坑口街あたりで、水坑口街の英国名は今でもポゼッションストリートと呼ぶ。 その1841年5月、香港政庁が最初に行った香港島の人口統計によると、約20の漁村(石切場含む)の住民、市街地の商人、九竜の出稼ぎ労働者ら約数千人が居住しているに過ぎなかった。英外相ロード・パーマーストーン(1784〜1865)によれば、1841年以前の香港について、「ほとんど人気もない不毛の島だった」という。
英国は当初、人口2000人で最大の集落だった赤柱(スタンレー)を都市化する計画を立てたが、衛生上の問題から島北岸部に移した。ちなみに香港で初めての日本人は1845年、マカオから移り住んだとされる。
19世紀半ばになると、中国国内で内乱が続き、比較的情勢が安定していた香港を目指して、広州(広東省)や周辺の多くの住民が香港になだれ込んできた。これに伴う人口急増に対応するため、香港政庁は埋め立て事業を加速、ビクトリア市の面積は次第に拡大し、中でも上環は「リトル広州」のごとく、華人の主要居住地・商業エリアとなっていった。
1 域多利道 [西端]
2 薄扶林道
3 克頓道
4 舊山頂道
5 寶雲道
6 黄泥涌道[東端] ×××××××××××××××××××××××××××××××××××××
出典・参考
|
|
|