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最新号の内容 -20160527 No:1455
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あなたが四川省へ行くべき36の理由
第7回 広元

四川盆地の北端にある文化の交流点

 

 

四川省は中国の内陸部にあり、山に囲まれた豊かな自然の中で、独自の文化を育んできた古い歴史を持つ地域です。近年、四川省は経済発展に伴い交通網が整備され、改めて「観光地」として注目を集めています。変貌する「蜀の国」を旅しながら、中国の今を探ってみました。
(編集部)

 

 突然、「広元」と聞いても、どこにある場所なのか知っている日本人は少ないだろう。広元市は四川盆地の北端にあり、山々を隔て陝西省と甘粛省に接する。北東に漢中盆地があり、その北側に天水市、宝鶏市、西安市が並んでいる。

 広元が四川盆地と以北の地域の間にあり、古くからそれらの交流点となっていたのは、「嘉陵江」(かりょうこう)という長江の支流の影響が大きい。というよりも、四川盆地とその以北の地域の間に流れる嘉陵江に沿って人が住み、人が行き交うようになって生まれたのが「広元」ともいえるのではないか。古めかしい言い方をするならば、蜀と中原を結ぶ通路にあるのが広元である。


《21》 剣門蜀道…古桟道を歩く

 広元の何たるかを知ろうとするなら、まず嘉陵江を見ねばなるまい。車を北に向かわせ黙々と走る。次第に山々が間近に迫ってくる…。四川盆地の北端に来たのが目に見えてわかる。そこから始まる景色は写真(1〜8)を参照されたい。

 車が止まると、「明月峡」と書かれた風情のある造りの牌楼が現れた。牌楼は最近造ったばかりのようだ=写真1。

 牌楼をくぐると、嘉陵江が見えた。日本で山間を流れる川といえば、澄んだ水を思い浮かべるけれど、隅々まで土色に濁っていた。普段からこうなのか、たまたま何かの原因で水が濁ったのか、どちらかはわからない。水面をじっと見るも魚がいるような気配はない。この写真の左側を注目していただきたい=写真2。

 ここは「剣門蜀道…朝天峡桟道遺跡」といって、山間に流れる嘉陵江の崖にそって、このような桟道が造られている。これらは昔ながらの桟道を再現したもので、全て木材でできているのだが、この位置から見ている限りは、別に何の変りもない…と思われるかもしれない=写真3。

 この桟道は横から見ると、このような構造になっている。桟道はしっかりしたもので、全く揺れないし、危なっかしい様子はないものの、横から見ると、よくぞこんな造りで桟道が出来るものだと感心する。史記に「桟道千里、通於蜀漢」と書かれているのが、ここの桟道だといわれている=写真4。

 

 崖の下に降りて桟道を見上げる。床板の下に太い柱があって、これが崖に穴をあけて差し込まれている。その柱の中央からL字型の支柱が伸びて、これがまた崖にあけた穴に差し込まれている。これで本当に大丈夫なのだろうか、と心配になるのだが…ここの桟道は、三国志の時代の後にも補修され、建設工具や火薬技術が発達するまで使われ続けたのだという=写真5。

 ところどころ、支柱が2重になっているところがある。たぶん場所によって、このような補強が必要なのだろう。秦の始皇帝の時代から、三国志の時代にあった桟道を再現したもので、これが2キロメートルも続いているのだ。かつて秦の惠王がここの桟道を通って蜀を滅ぼし、諸葛孔明はここの桟道から蜀を出て北伐を行った。古代中国の建設技術と歴史をじっくり体感できるのが、この古桟道の魅力ともいえる=写真6。

 桟道を端まで歩き通したら、帰りは桟道の上にある道を歩くことにした。これは1936年に完成した「川陝公路」である。当時、数十万人の労働者と掘削機を使って崖を掘り、幅4メートル〜5.5メートル、864メートルの道路を造ったが、何百人もの死者が出たという。四川省、貴州省、湖南省、湖北省、陝西省を結ぶこの道路は抗日戦争の際に重要な役割を果たしたそうだ。史記、三国志に遡る広元と桟道の歴史を紐解くと、意外なことに最後はわれわれ日本人にもつながってしまうのだった=写真7。

 ところどころ、桟道から崖を降りて川を眺められる場所がある。ここから見える光景は、春秋戦国時代や三国志の時代ともほぼ変りないはずである=写真8。

 

《22》 千仏崖

 何百年前の人々も、私と同じように、この石窟で仏像を眺め、模様や色彩に魅せられ、この静寂に意識を飲み込まれ、仏教世界を体感していたのだろう(写真9〜16)。それらの何百年前の人々とほぼ同じ体験を、この石窟では追体験できる。そんなぜいたくなことは、他の場所では少なく、珍しいことに違いない。

 明月峡を30キロメートルほど南下すると、嘉陵江のそばの崖に無数の仏像が彫られているのが見える。ここは「千仏崖」と呼ばれ、北魏末期から制作が始まり、唐代に最も盛んとなったそうだ。現存する仏像の数は大小合わせて7千体を超える。そもそもはこの2倍ぐらいの数があったそうだが、先述の川陝公路を建設した際に潰してしまったらしい=写真9。

 近づいて見てみると…確かに無数の仏像があるのだが、ところどころおかしなところに気づく。何やら大きくへこんだ人の形のくぼみがあり、ここには仏像があったのではないか…どうなっているのだろうかと思って、石窟の1つに入ってみる=写真10。

 無残にも、顔や腕を削られている。話に聞くと、長い歳月を経て風化したものもあるが、盗掘されたり、文革の時に破壊されたりしたそうだ。骨董屋などに行くと、仏像の頭や手を売っていたりするけれど、あれらの「骨董」は、このようなところから持ちだされたものなのか…=写真11。

 

おびただしい数の、破壊された仏像の前に立っていると、全く言葉を失ってしまう。ただ心虚しさがこみ上げてくるばかりで、なんともやりきれない気持ちになってくる。北魏末期と言えば6世紀ごろ…つまり、日本に仏教が伝来したのと同じ時期だ。唐の時代といえば7世紀から10世紀にあたる。自分が今、対面している仏像たちが、いつの時代のものかはわからないけれど、破壊されているなりにも、古い仏像がまだ残っていて、こんなに間近に見られるのは、貴重な体験といえるだろう=写真12。

 盗掘の多くは盗りやすいところから盗り、文革も壊しやすいところから壊すものなので、高い位置にある仏像は狙われにくいそうだ。保存状態の良い仏像を探して、石窟を隅々見て回った。そういうのも、千仏崖を巡る楽しみといえる=写真13。

 

写真14などは、背景を朱色に塗って、仏像を配しており、1体首が無くなっているのは残念だけど、保存状態は悪くない。ところで背景に描かれている「模様」は何なのか、塗料が剥離したものか…近づいてよく見たら、これらは落書きであった。

 

 写真15の石窟はとても保存状態が良かった。風化も少なく、壁や天井に塗られた色も残っていた。ほかの参拝客は少なく、監視員もいない。ガードマンもいない。広い石窟の中でただ1人、誰にも邪魔されずに、何百年前の仏像に囲まれ、静寂の内に対面し続ける。美しい彩色、繊細な模様の数々…石窟の中には、立体的に仏教の世界観が再現されているのだ。圧倒され取材に来ているのも忘れて、じっと見続けてしまう。

 写真16の仏像は、高い位置にあるわけでもなく、盗むのも壊すのも楽そうな位置にあったものの(不謹慎な言い方で申し訳ありません)、なぜか無傷でキレイな状態だった。同行の人々と理由を考えていたのだが、よく見るとこの仏像は随分と形や模様が違う。同行の人いわく、これはチベット仏教の仏像ではないか…と。この石窟には清代に彫られた像が少ないながらもあるらしい。たぶん、この地域に駐屯していた満州人が彫らせたものもあるかもしれない。そうすると、チベット仏教の仏像がここにあってもおかしくないということになる。盗掘者も紅衛兵も、チベット仏教の仏像には一目置いて壊さなかったのか…。

 

《23》 名物料理「十大碗」

 また繰り返すが、広元は四川盆地の北端で、中原に通じる交通の要衝であった。そのため仏像の文化もここに伝えられたのだろうが、広元の地元料理も、今までの取材旅行で食べてきたのとは違って、独特の特色があった=写真17。

 まず見た目からして、「四川料理」という雰囲気がしない。同行の人によれば、客家の影響があるのかも…という。客家に限らずとも、中国の山間部の料理は、大豆を使ったものが少なくないので、似通ってくるのかも知れない。

 それと、この時に出してもらったのは「十大碗」と言われる宴席料理で、店によれば、北宋の皇帝が戦勝した将兵をねぎらうために用意したのがルーツである…という。ただし、この地域と北宋の皇帝にどのような関係があるのかは説明がなかった。

 後日、この文章の冒頭に出てきた「漢中」の出身者に会った。私が広元を取材したことを述べると、「広元は四川だけど、漢中の近くだ。むしろ広元は漢中みたいなものだ」という。そう言い切ってしまわれると、四川人も広元人も気分が良くないだろうが、漢中にも「十大碗」なる宴席料理があるらしい。

 広元と漢中の十大碗は同じなのか、違うものなのか。ルーツはいずれにあるのか。広元は漢中みたいなものなのか、その逆はありえるのか。ぜひ機会があれば、これらの疑問を明らかにしたいが、それがわからなくても、料理は楽しめる。広元の料理は繊細さと素朴さを併せ持ち、日本人の味覚にもよく合う。この取材旅行中、色んな料理を食べたけれど、もう一度食べに行きたいものをあげるなら、広元を真っ先に思い出す。文化の交流点は魅力的なのであった。