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最新号の内容 -20110408 No:1330
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香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。
(金沢大学国際学類アジアコース准教授 倉田徹)

分裂する民主派
カリスマリーダー司徒華氏の逝去

司徒華氏の死を惜しむ香港市民。ビクトリア公園で行われた追悼集会には8000人が集まった(主催者発表)

愛国的教育者・司徒華 
 今回のキーワード「華叔」は、今年一月二日にガンのため逝去した「香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)」主席の司徒華・元立法会議員の愛称です。香港では政治家や芸能人の名前の一部をとった愛称はよく見られ、「四大天王」の一人である歌手・俳優の劉徳華が「華仔」と呼ばれるのはおなじみですが、同じ「華」でも「叔」は年長男性への、敬意と親近感が込められた愛称です。ベトナムの指導者・ホーチミンが「ホーおじさん」と呼ばれたのと同様、司徒華氏は「華おじさん」と称されたということです。ちなみに司徒華氏は「司徒」が姓、「華」が名で、中国では比較的珍しい二文字の姓です。

 司徒華氏は一九三一年生まれ、本職は一九六九年から一九九〇年まで三十一年間小学校長を務めた教師でした。一九七三年に教師の待遇改善を求め、教員の労組である「香港教育専業人員協会(教協)」の設立に携わり、その指導者として活躍し、教協を単一職業の労組として香港最大の組織にまで育てました。

 教協は植民地当局に対する圧力団体であったため、香港政庁にとっては煙たい存在でした。例えば、教協が一九七〇年代に発動した中国語公用語化運動は、英国から見れば民族主義的な動きで、植民地統治に対する脅威と見られたのです。英国政府は一九七九年の香港の圧力団体についての報告書で、教協を筆頭に挙げています。

 また、司徒華氏は日本の歴史教科書に抗議する活動や、尖閣諸島の中国による領有を主張する保釣運動にも加わるなど、愛国的な活動にも多く携わりました。こうした経緯もあり、一九八五年には司徒華氏は中国政府に招かれ、香港基本法起草委員会のメンバーとなりました。

植民地当局と対峙した愛国者

中央政府と決裂、民主派の指導者に
 しかしながら、司徒華氏自身は共産主義者ではありませんでした。許家屯・新華社香港分社長は、司徒華氏が共産党入党を求めてきたとかつて回顧録に書きましたが、司徒華氏自身の証言では、基本法起草当時、司徒華氏は許家屯氏から共産党への入党を勧められたものの、これを断ったとされています。また、司徒華氏は、かつて共産党が教協に党員を送り込み、組織乗っ取りを企てたと証言していますが、英国政府も、司徒華氏が指導者である限り、共産党が教協に浸透することは不可能と見ていました。

 司徒華氏と中央政府が決定的に決裂したのが、一九八九年の天安門事件でした。事件に至る民主化運動の過程で支連会が結成され、司徒華氏はその主席に就任し、死去まで主席職を務めました。天安門事件の発生時には中国本土の民主化運動指導者の国外逃亡を手助けし、事件後は毎年の追悼集会で、一党独裁の終結や事件の名誉回復などを叫び続けました。これによって司徒華氏は事件後に基本法起草委員を罷免され、それ以後生涯にわたり本土の地を踏むことはありませんでした。

 これ以来、司徒華氏は香港の民主派の中核人物として活躍を続けました。一九八五年の、香港史上初めて行われた立法評議会の選挙で、司徒華氏は教育界の枠から当選して議員となり、返還後の二〇〇四年まで立法会議員を務めました。民主党初代主席の李柱銘氏と並び、民主派全体に対して大きな影響力を持ち続けました。

 香港の民主派は、「愛国愛港」陣営と自称する左派勢力と対立関係にあり、左派系紙はしばしば民主派を「売国奴」などと批判することがありますが、上述のように、実は民主派は植民地当局と対峙し、中国の将来を思ってきたという経歴を持つ人物が主流を占めてきました。支連会が「愛国」を冠していることからも分かるように、共産党と意見の違いはあっても、民主派は民主派なりの「愛国」ないし「憂国」の思いを持つのです。

 それ故に、中央政府と民主派の間には、接点ができることもありました。昨年の政治体制改革政府案に関する議論の際、司徒華氏は疑似住民投票に反対し、政府案支持を訴えました。このため、左派系紙の『大公報』さえも、司徒華氏を愛国者として称える評論記事を没後に掲載したのでした。

精神的指導者を失った民主派の将来
 司徒華氏の死は、天安門事件や香港返還によって、国際的な知名度を得たカリスマリーダーが民主派を指導し、共産党に立ち向かった時代の終わりを象徴しているように思えます。今後民主派はどのような方向に進むのでしょうか。

 筆者は二月二十七日、ビクトリア公園で開催された司徒華氏の追悼集会を観察しましたが、そのときの状況は、民主派の現状をよくあらわしていました。公園内でブースを設置して募金などの活動を行っていたのは民主党と支連会のみであり、政治体制改革政府案を支持した司徒華氏を「ガンが頭に入った」との汚い言葉で非難した梁国雄・立法会議員の所属する社会民主連線(社民連)は、公園から遠く離れた銅鑼湾の地下鉄駅付近でジャスミン革命集会の支援を訴えるに留まり、追悼集会には直接参与しませんでした。公民党にいたっては、姿を現すこともありませんでした。

 政治体制改革政府案への態度で対立して以来、民主派内部には分裂が発生しています。中国本土よりも香港を優先させる姿勢をとり、「愛国」の色彩が薄いクールなエリートを中心とする理想追求型の公民党と、民主党などの穏健路線に対する不満を背景に誕生し、民主派の他勢力を罵倒することもためらわない過激な態度の社民連は、民主党との間に埋めがたい路線の相違を露呈しています。

 かつて民主派は、天安門事件の衝撃を前に、大同団結して香港民主同盟および民主党を設立しましたが、公民党・社民連など、最近数年の間に新しい勢力が相次いで成立していることは、民主党が民主派の中核として、十分に機能できていないことを示唆しています。司徒華氏のような強い影響力のある指導者が相次いで退場してゆく中で、民主派が力を発揮するためには、各勢力の利害を調整する新しい仕掛けが必要となっていると言えそうです。
(このシリーズは月1回掲載します)

筆者・倉田徹(くらた とおる)
金沢大学国際学類アジアコース准教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、03年5月〜06年3月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞