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最新号の内容 -20141205 No:1420
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プロ・オーケストラ創設40周年
香港フィルの軌跡

 

 香港フィルハーモニー管弦楽団(香港管弦楽団)は、香港で活動するプロ・オーケストラとして最も歴史が長く、楽員数や公演活動の広範さにおいて、現在香港有数のオーケストラであるだけでなく、アジアのオーケストラを代表する屈指のオーケストラだ。プロ・オーケストラ創設から今年で40周年を迎えた香港フィルの歴史と活動を紹介する。
(取材と文・綾部浩司/構成・編集部/写真と資料提供・香港管弦楽団)
 

 

プロとして旗揚げの苦難

 香港フィルハーモニー管弦楽団の前身は、1872年に創設された音楽クラブ(音樂社)。1895年にオーケストラとなり、最初の演奏会はGeorge Lammert指揮(本職はオークショナー)でロイヤル・シアター(旧大会堂)にて同年11月に行われた。1912年に香港大学が開校すると、主なコンサートは香港大学陸佑堂で行われるようになった。第二次大戦中、多くの楽員は赤柱(スタンレー)や深水埗の収容所に日本軍によって幽閉されたが、監視下で音楽を奏でることもあったという。
 

政庁のバックアップ

 戦後1947年に中英管弦楽団に再編成され、主にセント・ジョーンズ教会で演奏が行われた。当時のメンバーは約30名。1957年に香港管弦楽団に改名。1973年3月にプロ・オーケストラに組織変更することが決定、1974年に香港政庁主導でプロ化が進められた。

 財政面でバックアップする香港市政局からは3つの条件が出されたという。それは「良きコンサート会場、良き演奏家、そして良き聴衆」。これについて当時の関係者は「会場と聴衆については何の問題はなかった。しかし問題は高い演奏レベルの演奏家をそろえられなかったこと。そのためセミプロの音楽家を探し、プロに育て上げていった」と語っている。

1974年にプロ化された香港フィル第一回コンサートへのマクリホース香港総督(当時)の祝賀メッセージ

 

海外からプロを招へい

 1969年から香港フィルの音楽監督を務めたインドネシア系中国人指揮者リム・ケヂアン(林克昌)を中心に、香港から7名、海外から20名、プロ音楽家を加入させ、準備が進められた。リムはアムステルダムやパリでバイオリンを学んだ後、北京の中央交響楽団の指揮者となる。そして1968年に香港に移住し、1969年にヴェルディの歌劇「椿姫」を指揮して香港フィル初指揮、前任の香港フィル首席指揮者アリーゴ・フォア(1953年より)を引き継いで首席指揮者となった。プロとして初のコンサートのわずか2週間前に香港フィル常務委員会が組織されたのだが、このようにプロ・オーケストラへの旗揚げは苦難の連続であった。

音楽監督リムと香港フィル

 第1回コンサートは1974年1月11日、セントラルのシティー・ホール(大会堂)でリムの指揮、アルゼンチン人のシルビア・ケルセンバウムのピアノでベートーベンの「エグモント」序曲とピアノ協奏曲第5番「皇帝」、そしてチャイコフスキーの交響曲第5番が演奏された。

 オーケストラのメンバーは77名でスタートしたが、そのうち20名はフリーランスのプレーヤーであった。なおメンバーの中には日本人のクラリネット奏者とトロンボーン奏者各1人が含まれている。1974/75シーズンのコンサートは計33回で12のプログラム。そして10回の室内楽コンサートが組まれた。
 

監督交代と伸び悩み

 当時の入場券の価格は2〜10ドルと安価に抑えられていたものの、5〜7割程度しか売れていなかった。一方、中国音楽を取り上げたコンサートは即完売する状況であった。プロ・オーケストラ創設に尽力したリムだが、同年12月にわずか1シーズンで自ら音楽監督を辞任した。

 オーケストラ側は収入増加のためにさまざまな演奏会を企画、その中で最も成功したのは1976年6月に世界的なバイオリニストのイツァーク・パールマンを招へいしたことだ。パールマンとのコンサートだけで、25万3000ドルの純利益を得た。 リムの後任の音楽監督としてハンス・ギュンター・モマーが1977年に就任。クリスティアン・フェラス、ピエール・フルニエ、フー・ツォンなど世界を代表するソリストが香港フィルと共演したが、入場券の伸び悩みは続き、3割しかチケットが売れないコンサートもあった。モマーも1シーズンで香港フィルを去った。

 モマーの後任には中国系米国人のトン・リン(董麟)が1979年就任。音楽監督として3年務めたが、彼は香港フィル創生期において新時代を切り開いた。これまで取り上げてこなかった作品への挑戦、16名の楽員を解雇し新メンバーを追加採用して楽員のレベルの底上げ、ロンドンの名門フィルハーモニア・オーケストラのバイオリン奏者をコンサートマスターとして招へい、香港内のさまざまな会場でのコンサートを行った。また、香港のユースオーケストラとの共演、ウラジミール・アシュケナージ、ギドン・クレーメル、マクシム・ショスタコーヴィチ、Sirマイケル・ティペットなどとの共演、野外コンサートの開催など、現在の香港フィルの活躍ぶりを予感するような大胆な試みがトンの時代に行われた。

 

人気を博した中国音楽の演奏

 1982年、香港フィルは中国音楽のデジタル録音を開始したが(中国音楽のLPレコード録音は1978年)、いずれの録音も香港で大変な評判と売り上げとなった。これらの録音を通じて香港市民に広く香港フィルの存在が認知された影響か、香港フィルと広東ポップス歌手の共演は瞬く間に完売する盛況ぶりで、香港フィルの収入に大きく寄与することとなった。しかしクラシック音楽のコンサートは相変わらず芳しくない状況が続いたままであった。
 

香港フィル日本ツアー

K・シャーマーホーン(右)とM・ショスタコーヴィチ(左)

 香港フィル創設当初から多くの共演をしているバイオリニストの西崎崇子は当時の演奏会の雰囲気をこう語っている。「中国音楽を取り上げるコンサートには驚くほどお客さまがお越しになるのですけれど、西洋クラシック音楽のコンサートは、本当にお客さまが入りませんでしたね。舞台から客席を眺めてみると、観客はいわゆる常連ばかりでした」
 

レパートリー拡大へ

 トンが1981年に香港フィルを去った後、プロ・オーケストラとして10年目となる1984年、米国人指揮者ケネス・シャーマーホーンが4人目の音楽監督に就任。香港フィルは1983年以降数回日本公演を行ったが、いずれのツアーもシャーマーホーンの指揮である。なおこれ以降、日本へのコンサートツアーは行っていない。音楽監督就任にあたり「香港フィルを世界レベルのオーケストラに育て上げる」と表明していたシャーマーホーンは、ブルックナーの交響曲4番やマーラーの交響曲5番などの大曲を取り上げて、オーケストラのレベル向上とレパートリー拡大を目指した。

 一方、シャーマーホーンが音楽監督に就任するまでの監督不在の数年間、ロシアの大作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチの息子で指揮者のマクシム・ショスタコーヴィチが首席客演指揮者として香港フィルを支え、マクシムは父の作品を積極的に取り上げた。しかし当時のマスコミの香港フィルに対する評価は低かった。リハーサルに熱心ではないばかりか、練習中にドリンクを飲んだり、笑い声やおしゃべりも絶えないなど、当時の楽員のモラルは低かった。なお現在世界的な指揮者ミュン・フン・チョンがこの時期に香港フィルを指揮している。

 

アジアのトップへと飛躍

デビッド・アサートン 

傑出した指揮者が就任

 1989年には英国の指揮者デビッド・アサートンが音楽監督に就任。この年は香港フィルにとって、そして香港の音楽界にとっても非常に重要な年であった。現在香港フィルの多くの演奏会を催している香港カルチュラルセンター(香港文化中心)のオープニングが同年11月、そして開幕式典には英チャールズ皇太子とダイアナ妃を迎えるため、香港フィルの次期音楽監督を急いで指名する必要があったのである。一度も香港フィルを指揮したことがないアサートンが選ばれた理由について、当時の関係者はこう語っている。

 「アサートンは多くのレパートリーを持つだけではなく、傑出した指揮者で素晴らしいオーケストラのトレーナーであるからです。そして香港フィルのメンバーの多くはとても若いので、アサートンのような規律に厳しい指揮者が必要だったのです」

エド・デ・ワールト音楽監督就任コンサート 

 アサートンは自身のレパートリーである欧米の作品に加え、中国や香港の作曲家の作品を積極的に取り上げた。以前に増して、中国や香港の音楽家を積極的に楽員に採用した。また欧州のメジャーCDメーカーへストラビンスキーのさまざまな作品を録音、初の北米コンサートツアー(1995年)を行うなど、香港フィルの存在を海外に強くアピールすることを目指したのもアサートンである。

 香港の中国返還前日の1997年6月30日の夜、最も高い警戒レベル「黒雨警報」が発令される中、エルガーの「エニグマ変奏曲」のニムロッドを土砂降りの旧タマール基地で返還式典演奏したのは、アサートン指揮の香港フィルであった。なおアサートンは2000年まで11年間音楽監督を務めた。
 

初の香港生まれの指揮者

 2000年、アサートンの後任には初の香港生まれの指揮者・黄大徳(サミュエル・ウォン)が音楽監督となった。カナダ育ちのウォンはニューヨーク・フィルのアシスタント指揮者やホノルル交響楽団の音楽監督を務め、1995年以来、香港フィルを何度も指揮している。2001年のイースターにはマーラーの大曲交響曲第2番「復活」の演奏、2003年には初の欧州ツアー、大手CDメーカー「Naxos」への2種のCD録音がいずれも英国の有力音楽雑誌グラモフォンのトップ10に選ばれるなど、意欲的な活動を行った。一方、オーケストラのレベル向上を目指し主に香港人の楽員10名以上を整理した結果、楽員の一部と指揮者との軋轢と世論からの反発を招く結果となった。しかし楽員の若返りなどにより、結果的にはオーケストラのレベル向上に貢献した。

昨年の野外コンサート(セントラル) 


芸術監督が新境地

 ウォンの退任後、音楽監督不在が1年続いたが、後任には世界各地のオーケストラやオペラハウスを指揮している屈指のオーケストラビルダーとして名高いオランダの名指揮者エド・デ・ワールトが芸術監督として就任した。デ・ワールトもアサートンと同じく、まったく香港フィルを指揮したことがなかったが、2003年にウォンの代役として初めて香港フィルを指揮したときの印象を彼はこう述べている。

 「香港フィルの高いレベルと大きな可能性に対しハッピーな驚きでした。そして大きな喜びをもって音楽監督の申し出を受けさせていただきました」

 ちなみにデ・ワールトは香港フィルを指揮するまで、一度もアジアのオーケストラを指揮したことはなかった。デ・ワールトと香港フィルとの契約は当初5年だったが、3年延長され8年にわたった。彼の最大の功績は何といっても飛躍的に香港フィルの演奏レベルを向上させたことだ。デ・ワールトの薫陶で香港フィルは「アジアにある有数のオーケストラのひとつ」から「アジアのトップ・オーケストラ」に飛躍的に成長したのである。

 彼はマーラーの交響曲第8番を除く全曲、ベートーベンやブラームスの交響曲全曲、ベートーベンのピアノ協奏曲全曲、香港フィルの初の試みでもあるコンサートオペラ形式の『サロメ』『ばらの騎士』『エレクトラ』(以上リヒャルト・シュトラウス)、『蝶々夫人』(プッチーニ)、『ワルキューレ』第1幕(ワーグナー)、『フィデリオ』(ベートーベン)などを演奏し、香港フィルの新境地を切り開いた。なおデ・ワールトは音楽監督8年の間で203回の公演を指揮、コンサートで取り上げられた作曲家の数は118人、作品数は272曲である。

 

40周年を記念する改革

ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン

 デ・ワールトの後任として同じオランダ人のヤープ・ヴァン・ズヴェーデンが2012年より音楽監督となり、現在に至る。ズヴェーデンは2005年に初めて香港フィルを指揮し、聴衆に鮮烈な演奏を印象付けた。ズヴェーデンはオランダの名門オーケストラ、コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスターにわずか18歳で就任。米国の大指揮者レナード・バーンスタインの勧めで指揮者に転向。その後、欧米のさまざまなオーケストラの音楽監督や首席指揮者を歴任、客演でベルリン・フィル、ウィーン・フィルやシカゴ交響楽団など世界のトップ・オーケストラを指揮するなど、現代屈指の指揮者である。

 プロ・オーケストラ創設から40年となる今年以降、香港フィルはオーケストラのロゴ変更、新コンサートマスター就任、香港フィル合唱団新創設、楽員数増加などさまざまな変化が起きた。さらにワーグナーの大曲『ニーベルングの指環』全曲を数年かけてコンサートオペラ形式で演奏、欧州ツアーや初の南米ツアーも計画されている。

 ズヴェーデンは音楽監督就任記者会見の際、「香港フィルをこれからアジアのベルリン・フィルと呼ばれるようなオーケストラに発展させる」と述べていたが、今後ますます香港フィルの活躍には目が離せない。
 

活躍する日本人楽団員

 香港フィルの日本公演は20年以上前を最後に途絶えているが、オーケストラと日本人の指揮者や独奏者との演奏は創立当初から活発である。香港フィルを指揮した主な指揮者は福村芳一、大町陽一郎、秋山和慶、井上道義、渡辺暁雄、湯浅卓雄、尾高忠明、小泉和裕、小松一彦、篠崎靖男、鈴木雅明など。なお独奏者数は膨大なので割愛させていただきたい。またオーケストラ創設時より日本人楽員がメンバーとして加わっているが、現在香港フィルには3名の日本人楽員がいる。(敬称略)
 

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歴代音楽監督と指揮者
 

■音楽監督

1974年-1975年リム・ケヂアン(林克昌)
1977年-1978年ハンス・ギュンター・モマー
1979年-1981年トン・リン(董麟)
1984年-1989年ケネス・シャーマーホーン
1989年-2000年デビッド・アサートン
2000年-2003年サミュエル・ウォン(黄大徳)
2004年-2012年エド・デ・ワールト
2012年- ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン
 

■桂冠指揮者

2000年-2009年デビッド・アサートン

■首席客演指揮者

1982年-1985年マクシム・ショスタコービィチ
1984年-1993年ケネス・ジーン(甄健豪)

第1回コンサートで配布されたコンサートプログラム冊子は次のサイトから閲覧・ダウンロードできる。www.hkphil.org/house-programme
※資料・香港管弦楽団