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最新号の内容 -20141107 No:1418
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予想外のセントラル占拠
主導権は発起人から学生へ

 

 香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。   (立教大学法学部政治学科准教授 倉田徹)

 

当初の計画とはかけ離れたオキュパイ・セントラル

 
 

町を奪われる若者の危機感

 第81回 「遍地開花」(至る所で花開く)

 

拡散した「オキュパイ・セントラル」 

  さあ、大変なことになってしまいました。本連載でも繰り返し言及してきた「オキュパイ・セントラル」が、このような展開になると誰が予想したでしょうか。本稿締め切り(10月17日)時点でこの運動には収束の兆しがなく、筆者自身も経験したことのないテレビ・ラジオ出演や取材・執筆の御依頼多数を頂き、日々の展開に翻弄され続けています。一回の掲載では書き切れないストーリーがありますが、まずは発端の部分からお話ししてみましょう。今回のキーワードは「遍地開花」です。「至る所で花開く」との意味で、物事や思想が急速に様々な場所へと拡大することを形容する、よく使われる中国語の四字熟語です。

 「オキュパイ・セントラル」は、当初その名称が示すように、セントラルの金融街で静かに座り込み抗議を行うことが想定されていました。発起人の戴耀廷・香港大学副教授らは、8月31日の全人代常務委の決定で、民主派の行政長官普通選挙への出馬の道が断たれたことを受け、計画通り「オキュパイ」を実行すると宣言し、その決行日は、事前の情報から、10月1日の国慶節と考えられていました。警察も応戦の準備を進めました。9月4日の『明報』によれば、香港警察から「オキュパイ」対策に割く警官の人数が6000人、それを6人ずつのチームに編成して、各チームが15分で1人を人力で排除して行くとすれば、1時間に4000人を排除できるとの目論見があったようです。この通りであれば、数万人規模の「オキュパイ」であっても、数時間で排除され収束するはずでした。実際、7月1日デモ後の「予行演習」とされた座り込みも、このようなやり方で警察に少しずつ処理されたのです。

 しかし、実際の展開は、そういった「机上の空論」からはかけ離れたものとなりました。第一に、運動の主導権が「オキュパイ」発起人たちから、学生へと完全に移りました。9月22日から大学生の団体・学連は1週間の授業ボイコットに入り、26日には高校生を主とする学民思潮もこれに呼応しました。26日夜に学生たちが政府庁舎前の「公民広場」になだれ込み、ここを占拠して多くが逮捕されると、27日には学生支援の集会が数万人規模に膨れあがり、28日未明に発起人たちは学生の勢いに押される形で「オキュパイ」の発動を前倒して宣言しました。その後、運動の主役は学生と市民に移りました。

 第二に、警察の処理の手順や方法も、想定とは全く異なるものとなりました。28日夕方には学生支援の市民多数がつめかけ、警察がこれを規制したところ、市民は路上にあふれ出ました。警察は7000人を動員して対応しましたが、相手は当初想定した、座り込んで動かない人々ではなく、走り回る市民でした。学生や市民に催涙弾を87発も発射したことは、さらに市民を刺激してデモの拡大につながりました。催涙弾の発射後も警官隊が前進して「陣地」を確保しなかったのは、前進した場合には後ろから市民に回り込まれる状況であったためと言われ、「兵力」においても警察が負けていたのです。

 さらに、催涙弾から逃げ惑った学生や市民は、金鐘の政府庁舎付近を離れると、香港島と九龍の各地に散らばって、そのままそこを占拠しはじめました。こうして「オキュパイ・セントラル」は、セントラルよりもむしろ金鐘・銅鑼湾・旺角を拠点として、「遍地開花」の状態になったのでした。

 

なぜ「銅鑼湾」と「旺角」か

 「遍地開花」はこのように、運動の予想外の展開が生んだ偶然の現象でした。政府庁舎前の金鐘の占拠は、政府に圧力をかけるという論理的にもうなずけますが、なぜ残りは繁華街の「銅鑼湾」と「旺角」だったのでしょうか。デモ隊の人の流れが交通の要衝である両地に向かったことや、黒社会の勢力範囲との関連も色々と語られますが、民主化要求の場として両地にどのような意味が与えられるのでしょうか。

 そのような疑問を抱きながら、筆者は10月初めに香港を訪れ、これらの「占拠区」を歩いてみました。車の流れが消えた旺角のネイザンロードを見渡したとき、筆者は「なぜ旺角か」との問いへの答えが見えた気がしました。沿道の商店が見渡す限り宝飾店・化粧品店・時計店ばかりなのです。特に象徴的なのは、アニメDVDやCD・フィギュアなどの店が連なり、若者文化の中心として知られる「信和中心」ですら、ネイザンロード沿いは貴金属店に変わっていたことでした。これには、香港の若者が町を奪われるという危機感を抱くのも無理はありません。
 言論や集会等の高度な自由が認められてきた香港では、抑圧や流血の歴史が少ないだけに、これまで民主化運動も諸外国と比べておとなしいものでした。今回の焦点である行政長官普通選挙の候補者指名の方法という問題も、人々を大量に動員するには抽象的過ぎると筆者は感じていました。しかし、今やこれほどまでに具体的な「脅威」として可視化された「中国化」は、町の方向性を決める自主性の問題として、民主化との直接の関連で考えられるようになったのでしょう。露骨な弾圧のない場所で、民主化運動がこれほどに盛り上がることは、世界的にも珍しい事例でしょう。

 

「遍地開花」の下で維持される秩序

 「遍地開花」状態の「オキュパイ」には、もはや統一した指導者はいません。学連・学民思潮ですら、特に海を隔てた旺角の占拠区に対してはコントロールを失っています。しかし、それでも「オキュパイ」は、周辺の商店に危害を加えるような暴動に発展することなく、それぞれの占拠区では基本的に治安が維持されています。暴言・暴行や迷惑行為は制止され、ごみは分別され、周囲の商店も営業を再開しました。中国の反日デモはもちろん、欧米でも学生のデモでこれほど秩序だったものはなく、あるいは世界中で香港でのみ起きうることかも知れません。

 なぜ「オキュパイ」は、「遍地開花」の状況下でも、秩序を維持することができるのでしょうか。紙幅がなくなりました。この疑問は次回の本欄で検討しましょう。

(このシリーズは月1回掲載します)
 

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筆者・倉田徹

立教大学法学部政治学科准教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、03年5月〜06年3月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞を受賞