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最新号の内容 -20170310 No:1474
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中連弁の権威失墜で政界に戸惑い 

第109回 欽點(勅命により指名する)

 香港メディアの香港政治関連の報道では、香港ならではの専門用語や、広東語を使った言い回し、社会現象を反映した流行語など、さまざまなキーワードが登場します。この連載では、毎回一つのキーワードを採り上げ、これを手掛かりに、香港政治の今を読み解きます。(立教大学法学部政治学科准教授 倉田徹)
 

行政長官の人選

中央政府の支持する候補が選ばれる

 

マニフェストを発表した曽俊華氏(写真・楢橋里彩)

 

中央政府の指定候補者

 今回のキーワードは「欽點」です。「欽」は皇帝による行為を示し、「點」は中国語の「點名」、即ち「指名」を意味します。したがって、「欽點」は、「勅命により指名する」ことと訳せます。

 無論、この言葉は本来中華帝国時代の用語であり、現在の共和国の中国に「勅命」が存在する訳がありません。しかし、北京の中央政府による指名に対しては、今も比喩として「欽點」が使われます。

 梁振英・行政長官の再選不出馬表明後の焦点は、次の行政長官の人選です。行政長官は香港で選挙が行われ、中央政府が任命するという制度ですが、実際には中央政府が支持する候補者が、中央政府の意向を反映する行政長官選挙委員会によって選ばれるというのが公然の秘密です。選挙委員の多くは「欽點」に従って投票すると見られているのです。

 しかし、問題は「欽點」の伝達方法です。少なくとも表面上、香港の行政長官が香港で選挙されているという状況を作るために、中央政府は「欽點」を早いうちに明確に行うことを避けねばなりません。これについて、過去北京は醜い失敗を犯しています。2000年1027日、北京を訪問した董建華・行政長官と会談した江沢民・国家主席は、上機嫌で董長官と握手しながら記者の質問に答えており、記者から「董長官の再選を支持しますか」と問われると、広東語で「ホウ(好)!」と述べました。これに対し、香港の記者が「こんなに早く意思表示すると、人から『欽點』だと言われませんか?」と質問すると、江沢民氏は激昂し、香港の記者は質問が単純だ、幼稚だ、西側の記者に及ばないなどと、3分間にわたってカメラの前で怒鳴り続けたのです。

 結局、2002年の行政長官選挙は、アジア通貨危機を受けて董長官の支持率は低迷していたにも関わらず、800人の選挙委員のうち714名の指名を受けた董長官の無投票での再選に終わりました。しかし、再選1年後の2003年7月1日に「50万人デモ」が発生し、董長官が2005年3月に任期途中での辞職に追い込まれたのは周知の事実です。


政界に広がる疑心暗鬼

 これ以降、「欽點」の伝達は、このような露骨な方法をとらなくなりましたが、今回の選挙でも、林鄭月娥・前政務長官が中央政府のお気に入りであることは、かなり早い時期からある種の常識とされていました。特に、『文匯報』や『大公報』といった左派系メディアが、林鄭前長官を激賞する記事を大きく報じ続けたことは、明らかなメッセージでした。しかし、それにも関わらず、香港の政界は、すぐに林鄭前長官支持に雪崩を打つことはありませんでした。

 その背景には、中央政府駐香港連絡弁公室(中連弁)の権威失墜があります。左派系メディアを含め、香港の左派組織を統轄しているのは中連弁ですが、その指示は2012年の行政長官選挙の際には、当初の「唐英年候補支持」から、突如「梁振英候補支持」に転じました。そして今回、中連弁は去年の12月9日の梁長官の再選不出馬表明当日まで、「梁長官再選」を言い続けたとされます。政界には林鄭前長官を支持して良いものか、なかなか晴れない疑念がありました。

 そこで、北京から直接、張徳江・全人代委員長が2月5日に深圳まで赴き、行政長官選挙委員多数を呼び出して、中央は林鄭前長官を唯一の支持する候補者であるとすでに決定したと述べたと報じられています。張委員長はこれが「欽點」ではないとしつつも、これは張委員長や張暁明・中連弁主任の個人的決定ではなく、共産党中央政治局の集団での決定だとまで述べたとされます。選挙情勢の混乱を前に、共産党のナンバー3がとうとう引きずり出されてきた格好です。

 しかし、これでも選挙情勢は決着とはなりませんでした。中には張委員長と習近平・国家主席の間に権力闘争があると疑い、習主席の指示がなければ確定しないとまで言う者もいるのです。香港政界にある政界・財界の内部対立は、過去数年あおられ続けた結果、今やここまでの疑心暗鬼を生んでいるのです。


民意を置き去りして良いのか

 そもそも、根本的な問題は、投票権を持たない圧倒的多数の市民の間にも広がる、中央政府への不信感です。林鄭前長官はほぼ間違いなく「欽點」候補であり、最有力です。しかし、林鄭前長官には支持率というアキレス腱があります。有力候補のうち、曽俊華・前財政長官の支持率が、ほぼあらゆる民意調査で林鄭前長官を上回っているのです。それには両名の人気・実力という要素に加え、或いはそれ以上に、「欽點」要因が影響していると考えられます。過去5年間、梁振英行政長官の強硬路線を支持し、政治の混乱と人々の不満を生んできた中央政府が「欽點」する候補者は、その時点でこの路線の継承者とみなされ、市民から疑われることを避けられないのです。

 行政長官選挙は2007年以降、複数候補者が争う形となりましたが、いずれも支持率1位の候補者が当選しています。2007年は人気絶頂の曽蔭権・行政長官が無事再選されました。2012年は唐英年候補がスキャンダルで失速したことで、梁振英候補が逆転勝利したのです。少なくとも当時、梁長官は民意調査で支持率1位であり、中央政府が梁長官を「欽點」する際も、その要素を大いに考慮したものと思われます。

 中央政府の支持する候補者が、市民からも幅広く支持され、両者の一種の合意ができたところで「欽點」するというのが、中央政府にとっての理想的シナリオのはずです。しかし、「欽點」が支持率に悪影響するとなると、この方法はそれ自体が矛盾したものとなってしまいます。このような状況を生んでしまったのは、これまでの中央政府の政策の失敗と言わざるを得ません。

 さらに、民主派がかつてない大きな勢力を行政長官選挙委員会に持つようになったことも、中央政府の「失敗」の反映です。いかに「欽點」がなされても、選挙には民主派の指名により、対立候補が確実に送られるでしょう。今回の選挙で林鄭前長官の選挙戦がどのように展開するかは、中央政府の影響力の試金石と言えそうです。

(このシリーズは月1回掲載します)

筆者・倉田徹

立教大学法学部政治学科准教授(PhD)。東京大学大学院で博士号取得、03年5月〜06年3月に外務省専門調査員として香港勤務。著書『中国返還後の香港「小さな冷戦」と一国二制度の展開』(名古屋大学出版会)が第32回サントリー学芸賞受賞