あなたが四川省へ行くべき36の理由 第3回 広漢…三星堆遺跡と回鍋肉
太陽と鳥の文明を訪ねて
四川は大きく分けると、成都盆地と盆地を囲む山間部からなっている。四方の山間部ではさまざまな民族が豊かな文化を花開かせている。盆地には古くから文明が栄えており、歴史遺産の宝庫となっている。通常、シリーズになっている旅行ガイドブックは、各地方ごとに1冊出るものだが、四川の旅行ガイドブックは3冊にしても足りない…まじめに作ろうとすれば、大百科事典のような旅行ガイドブックになるのではないか。 成都を離れ、クルマで北東へと走る。高層ビルがないので、空を高く感じる。まわりは田畑ばかりで、ときおり川が流れている。自動車道と電線が見えるほかは、何千年と変わらない風景なのか。川の水をひいて、土地を耕して生きる…中国では1万年以上前から、そのような営みが続けられてきた。成都からわずか40km離れた「広漢」というところに、5千年前に栄えた文明の遺跡がある。そこは、われわれ日本人にとっても関係があるらしいのだ。長江文明の1つである古代中国の遺跡…三星堆(さんせいたい)遺跡である。
⑨ランチにチョウザメ 三星堆博物館に着いてから、まずは食事にしましょう…ということになった。博物館の中に通され、電気自動車に乗って移動する。ちなみに三星堆博物館の総面積は35.3ヘクタール。東京ドームの7.5個分となる。一見するところ、大きな公園のようである。一体どこまで走るのだろうか…と思っていたら、黒い瓦をふいた中国風の建物が見えてきた。
建物の前には、奇岩や巨木を配した庭園があり、池には一面に蓮が生い茂り、どこからかキンモクセイの香りが漂ってくる。電気自動車を降りて、池を眺めていると、水の中で何かが見えた…鯉か…錦鯉? いや黒い。ここまで立派な庭を作って、池に普通の鯉なんか飼わないだろう…でも変だ。形が鯉じゃない。尖った口に、銀杏の葉のような大きなヒレ。背びれも尾びれも尖っている。鯉は優雅に泳ぐものだが、この魚はすねた犬のように上目遣いでじっとしている。目を凝らしてよく観察すると、チョウザメであった。このほか、ナマズも飼われていた。
⑩長江文明の足跡
中国の古代文明を、大きく2つに分けると、黄河文明と長江文明ということになる。この違いを簡単に言えば、畑作の黄河文明と稲作の長江文明である。三星堆遺跡は、長江文明に属し、5千年前から3千年前ごろまでに栄えたとされている。
三星堆博物館を訪れると、上の写真のような「顔」がやたらと多い。なぜこんなに多くの顔が必要だったのか…と思うのだが、三星堆文明は2千年間も栄えたのだから、その間には、さまざまな祭祀が行われたのに違いない。ユニークで多種多様な形にひかれ、この「顔」ばかり眺めてしまうのだが、ここではもう一つ注意して見ておきたいものがある。
「鳥」をモチーフにした出土品が多いのである。展示の最初の方では、柄杓の柄に鳥の頭があしらわれており、ちょうど取っ手に良い形になっている。使いやすい柄杓の形状を追求しているうちに、鳥の頭のような曲線をデザインに取り入れたのか…と思っていたのだが、どうやらそういう簡単な話ではないらしい。
長江文明では、鳥と太陽が信仰されていた。鳥が太陽を象徴するという説もあるし、三星堆遺跡の出土品には日光をかたどった青銅器もある。太陽と鳥を信仰する習慣は世界の各地に見られるが、日本の天照大御神や八咫烏(やたがらす)、伊勢神宮、熱田神宮などの「神鶏」(しんけい)、日本書紀に出てくる「金鵄(きんし)」もそれにあたる。長江文明が日本のルーツという説や、弥生人は中国から稲作を伝えた集団と考える説もある。
そのような事情を踏まえて三星堆遺跡を眺めていると、これは日本人の遠いルーツなのかも…という気がしてくる。全く縁もゆかりも無い異文明とは思えないのである。日本の水稲(すいとう)栽培が、外国から渡来したものであることは間違いないのだから、三星堆遺跡が直接のルーツでなくても、どこかで関係していることはありえるだろう。 この旅行の以前からも、四川人の細やかな感性や、勤勉な性格、彼らが作り出す工芸品の精密な細工、たゆまざる努力と創意工夫に、親しみと驚嘆を覚えていたのだが、もしかしたらそれは、われわれと同じ文明のルーツを共有しているためなのか。日本人にとって、三星堆遺跡を参観するのは、ただの物見遊山ではない。民族のルーツを考える上で、非常に有意義な体験なのであった。
⑪究極の回鍋肉を求めて 中国の内陸部で、山に囲まれた四川省にいて、日本のルーツについて考えさせられるとは思いもしなかった。次の場所へ移動する車中で、ずっと深く考えこんでしまった。そういえば、車窓から見える山も、田畑の姿も、日本の風景に似ているような…とまで感じるようになるのは、思い込みが過ぎるだろうか。
通訳兼ガイドの女性が、次は回鍋肉(ホイコーロー)の名店へ行くと言う。車中で簡単な説明を受けたが、彼女は回鍋肉が四川発祥の料理というのだ…回鍋肉は中国のどこでも食べられるものだから、今まで起源について考えたこともなかった。 改めて調べてみると、かつて四川において、鬼神や祖先を祭る際に供えた肉を、鍋に戻し(回)て作ったことから、「回鍋肉」と呼ばれるようになったものらしい。今から行く店は、究極の回鍋肉を開発したらしいのだが、どうしてそれは成都のような大都会ではなくて、三星堆遺跡の他は、川と田畑しかないような、広漢にあるのだろうか。クルマは進めど、それらしき店は見当たらない。
少し奥まったところに、農家のような建物が見えて、その前では収穫したトウモロコシを広げて干してある。こちらの農家でよく見かける光景だが、そこでクルマが止まった。建物の中に通されると、立派な中庭が現れた。大きな池があって、たくさんの魚が飼われており、池の中に建つ東屋で庭を見ながら食事をするようになっているのだ。こうした庭は、中国の昔話の中だけの、理想の暮らし方の1つと思っていたものの、今でも中国では…少なくとも四川省では、レストランの形をとって、現存しているのである。 店主は、年若いころから修行に入り、腕を鍛え名を挙げた後に、独立して今の店を始めた。店名を「連山代木児回鍋肉餐庁」と言う。
特別に厨房へ入れてもらうと、店主が皮付きの豚肉の塊を取り出した。これは、よく脂がのった豚の臀部(でんぶ)の肉を、奥の赤身まで火が通らない程度にゆでたものである。それをナタのような大きな包丁で、厚さ5ミリ程度にスライスする。1枚あたりの大きさは20cmほど…薄めのポークステーキと呼ぶべき大きさであろう。
これを中華鍋に投じて豪快にいためる。天井を焦がすような勢いで火炎が舞い上がり、広い厨房に香ばしさが充満する。肉を強い火炎にさらすことで、余分な脂身を落とし、赤身を固くし過ぎないようにサッと加熱して、香りを引き立てる。野菜は香り消しのニラを少しだけしか入れない。野菜を入れないのであれば、それは回鍋肉じゃないのでは? と聞いてみたが、店主は自信を持って、これは肉の味を楽しむ回鍋肉なのだと力説する。考えてみれば、そもそもはお供えの肉を利用した料理であるし、「回鍋肉」という料理名の中に野菜は含まれてない。それに、野菜を入れて一緒にいためたら水気が出てしまう。肉の旨味だけをガッツリ楽しみたいのなら、野菜を入れないのは正解だろう。
皿の上に竹で組んだ「台」があり、そこにいため上がった肉を盛りつけて出来上がり。こうすることで、肉の余分な脂身が皿に落ちる。さっぱり食べたいのなら「台」から肉を取り、こってり楽しみたいのなら、皿に溶け落ちた脂に肉を浸して食べれば良い。このように盛り付けることで、立体感が出て見た目にも面白い。非常に合理的で、創意工夫が凝らされている。 脂身の多い豚肉だけで作った回鍋肉…脂っこいのは覚悟の上で、肉片を口に運ぶと、まずは香ばしさが鼻をつく。口に含むと、肉質はコシを残しながらも、口中で溶けるような柔らかさ。かむと豚肉の甘みと豆板醤(トウバンジャン)の辛みが合わさり、思いがけなくスルッと食べられる。胃に落ちた肉の滋味は、全身にしみ入るように力強いが、意外に胃もたれしない。これぞ本場の回鍋肉! 本物の回鍋肉だ! と叫びながら走り出したくなるぐらいに狂喜する。そうすると、私の気持ちを察したのか、そばで見ていた店主が満足そうに「ニヤリ」と笑った。その時に、「あ!もしかして…」と気づいたことがある。 試食をする私の周りには、店主のほかにも家族や従業員がいた。どうも、私は彼らにどこかで会ったような気がするのだ。それは「以前」のことではなく、つい最近…いや、「ついさっき」と言うべきか。私はこの店に来る前に、彼らと出会っているはずなのだ。 別れ際に、店主と家族と従業員に集まってもらい、店の前で記念撮影をした。あとで写真をゆっくりと見直したのだが、彼らの顔立ちは…三星堆の頭像や仮面とよく似ているのだ。もしかして、彼らは「三星堆人」の末裔ではないのか。あれだけ創意工夫を凝らした青銅器を作り出す人々の末裔であれば、創意工夫を凝らした回鍋肉を作り出すのも大いに納得。そして、青銅器も回鍋肉も、この土地の「祭祀」から生まれたものなのだ。 それに、この人たちは私たち日本人の「文明の師」の末裔かも知れないし、われわれと同じ血を受け継ぐ兄弟姉妹かも知れない…そんなことを想像していると、彼らが赤の他人とは思えなくなって、ここを離れづらくなってきたのだが、四川の旅はまだ始まったばかりなのだ。みんなに見送られながら、再会を心に誓いつつ、次の場所へと向かった。(つづく) |
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